2018年7月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:7月15日(日)
  • 例会出席者:11名

映画日記 48

「映画日記48」ということでありますが、毎回50作品~80作品を記録として紹介してきたことを考えると、これまでに3.000作品は超えていることになり、ただ、ただ、すごいなと思わずにいられません。それに、記録者であるSKさんは、観た映画であっても掲載しない場合もあるそうなので、驚きの映画ファンなのだと感心せざるをえません。気になるのは、以前だと、会員の何人かは話題になった映画をいくつか観ていて、どんな映画だったのか、感想を述べあって盛り上がったものですが、それが、ここのところめっきり少なくなってきています。映画鑑賞人口は増えていると言うのに、です。もしかすると、こちらの年齢が上がって、いつとはなしに劇場から遠のいただけなのかもしれません。「見なくちゃ損だよ」みたいな工夫が「映画日記」に加味されると、もしかしたら、皆さん、劇場に足を運ぶのではないでしょうか。『婚約者の友人』は観た方が一人いました。  

生き物 この難しきもの

 生き物との様々お付き合いを、子どもの頃から…また子供を持った頃とつづられていて、合評会に出席した皆さんも郷愁を感じられたようです。冒頭のカラスの童謡には、童心に帰った気持ちになりました。そうですよね、あんなに身近にいたはずの動物が、いつの間にか嫌われ者になってしまったのですから不思議です。カラスはカラスでも、〈クチボソカラス〉から〈クチブトカラス〉への変遷があってのことなのかもしれないと、話し合いました。クチボソカラスは知能も高く、言葉をしゃべらせたらインコよりも巧みだと聞いています。ヘビは、皆さんの子供の頃は数多くいたらしく、いた、いた、いた、と声が上がりました。ウマは日本原産種の馬でもいろいろで、それにポニーとか、種類が豊富ですね。人間の役に立つために工夫された結果なのでしょうか。動物を三つ取り上げて、「難しきもの」としたのは、それは人間の方のことなのかもと、読後に感じました  

鈴懸の街路樹

 作品は、前田美津子と佐竹瑠璃子、それに佐竹家の新しい店子である前野さん家族との人間模様をユーモアたっぷりに描いています。それに反するように感じられる抒情的なタイトル「鈴懸の街路樹」なのですが、そこに作者の並々ならぬ構想が伺えてなりません。駅前の二本の鈴懸の木は、施設で育った美津子と瑠璃子の象徴なのでは? なお、二人はお金持ちと貧乏に人生を違えたけれど、唯一無二の親友のままなのです。二月中旬から十二月十五日までの、ほぼ十か月の顛末なのですが、作者が意識したかどうかはわかりませんけれど、これって、妊娠期間に相当します。もちろん、現実的な妊娠ではなくて、なにごとかの「心の妊娠」なのです。このように深読みさせるだけの作品構造を、この作品は持っています。作中の『劇団築地らあめん』など、唐突に感じるのですが、もう少し書き込みがあると生きてくるでしょう。皆さん、続編を期待していました。  

呟き上手

 この作品を読んで、いったい誰が「呟き上手」なのかと考えました。とりあえず、芳江さんのことなのかと思いました。そうした上で、この作品は小説なのか、それとも作品自体が「呟き」=ツイッターなのだろうかと迷いました。それは、書かれていることが妙にリアルで、ツイッター文体というのでありましょうか、呟きそのものの感じがするのです。僕と芳江、私と芳江、僕と私、そうして芳江と僕と私になりツイッターの怖さが書かれ、僕の好きな日暮里で逃げ場のない情報社会の怖さを描いて終わっています。誰もかれもがスパイに見えてくる怖さは、あと4、5年もすると「本当」のこととなってしまうかもしれません。そうしてP128下段にあるように、「普通に本当のことをまっとうに話す人がいない」社会になってしまうのです。変にXさんは道徳を強調しますけれど、支配のための道徳ではなく、自由と民主主義のための道徳であって欲しいものです。  

村本家の女

 スケッチ風に描いた「村本家の女」なのかなと思いました。村本家には、母の登紀子、長男の久志、その嫁の理恵子、久志と理恵子の娘である香織、そして家を出て一人暮らしをしている久志の妹である千沙がいます。村本家の女としては、登紀子・理恵子・千沙・香織となるのですが、千沙の結婚話から、村本家のその「女」模様が描かれていくのです。冒頭にある、玄関の靴の描写から千沙と特定されるのですが、それは香織ではない、との判断があってのことでした。けれど末尾になると、香織の顔立ちが千沙に似てきているとなり、登紀子→千沙→香織がつながって、理恵子を不安にさせます。理恵子にとっては、自分の子供の香織が村本家にとられてしまうような、微妙な感覚なのでしょう。とりあえず「家」に視点を当てての作品ですが、「女」に視点を持たせたらどんな作品になったのでしょうか。その場合、もちろん「千沙」からの主観的作品になります。  

月とアルゼンチン

 とても美しいタイトルだと思いました。月で「月の砂漠」の歌を想起させますし、アルゼンチンで、月の登る彼方にある革命を弾圧された国・アルゼンチンを遠望させます。そこにバンドネオンなのです。歌のうまい磯美と、バンドネオンに天性の素質を持つ壱郎は結ばれるべき運命にあります。これに明と老人が加われば、それだけで十分だと思うのですが、作者はストーリーを挿入させます。作品合評において、よく、リアリティがあるかないかといった批評がなされます。このリアリティとは、低い次元で使ってしまうと作品を台無しにしてしまいます。高い次元での、つまり文学的なリアリティを追求すればよいのですから、作者は、自己の作品に忠実に表現すればよいのです。とりあえずは、合評にあったように「通り魔」は余分なストーリーかもしれません。相対化された壱郎・磯美・明・老人、その描写だけで、この作品は「世界」を作っています。  

おしまの打ち豆鍋

 安政の大獄から続く桜田門外の変を、そのとき暮らしていた江戸庶民である、香具師の仙治・居酒屋の酌婦であるおしま、を通して描いた小編作品です。時雨に会い、雨宿りに入った居酒屋で仙治はおしまと出会い、おしまの郷土料理である打ち豆鍋を振舞ってもらいます。この「打ち豆鍋」がタイトルになっているのですけれど、どのような豆の鍋料理なのか具体的に描写すると、作品により味わいが出てくるでしょう。もちろん、なんとなくはわかるのですが……。仙治はおしまの紹介で彦根藩上屋敷の中間の職に就きます。やがて桜田門外の変が……。仙治はその場から逃げ出すことなく、浪士と斬り合ったということで足軽に取り立てられ、仙治とおしまの顛末もめでたしめでたしなのですが、世情は幕末の動乱の幕開けとなっていくのです。副題の「江都魚菜歳時記より」の示すとおり、この作品は江戸庶民の食文化に視点をあてたシリーズの初回作品なのだそうです。