2018年6月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:6月17日(日)
  • 例会出席者:10名

おすすめ

 この作品はとても短いのですが、紹介している『劇的紀行深夜特急』は1990年代から続いているということですから、たいへんスパンの長い番組なのですね。なかなか意味深です。タイトルの「劇的」と「紀行」との複合化された意味を含み、ドラマでもあればドキュメンタリーでもある、かなり実験的要素が詰まった作品なのでしょう。井上陽水「積み荷のない船」の曲が、まさに主演している大沢たかおを象徴しているように感じました。「積み荷のない」は空っぽということで、「船」とは単に海に浮かんでいる存在、アナーキーさの象徴です。さて、そこで、香港のチョンキンマンションとはどのような建築物なのでしょうか。もう大分以前のことですが香港を旅行した友人から、九龍街地区(?)のおんぼろな高層マンションの写真をいただきました。もしかしたら、この建物のことなのではないかと想像しました。香港は、今では世界一の金持ち地区になっています。  

明治文壇の群像 その15

 今回で、田山花袋は終わりなのでしょうか。すごく面白かっただけに残念です。尾崎紅葉から田山花袋の文学史の流れは圧巻でした。振り返れば、エンタメであった尾崎紅葉の周辺に田山花袋はいたし、その御かげで作家としてもデビューできたのですから、不思議な感じがします。当時において、純文学やエンターテイメントといった区分はなかったのでしょう。作者には、この後の文壇作品を書いていただきたいと、切に希望します。同人雑誌に評論等が掲載されていると、その同人誌の「重し」となり、格を高めます。それは駒本さんにしかできないでしょう。島崎藤村などいかがでしょうか。もっとも、島崎藤村ではあまりに純文学にすぎるかもしれませんが…。自然主義文学と私小説のセットは、確かに、日本文学の風土となっており、現代にまで脈々と続いています。これまで文壇史風に書かれてきましたけれど、明治文学の概論風に書くのも、方策なのでは。  

アナザー・メモリー

 着想が面白いです。商業劇団「メモリー」で『泣いた赤鬼』を公演していた最中、私は青鬼を演じていたのですが、おそらく死んでしまったのです。その死を悟る「必要不可欠な概念」が揮っています。「周りに人がいないのは、いないんではなく、自分には見えないということ」「私の記憶がある人たちを、こちら側から見続けなければならない」「でも何故か自分の思い出は封印されていて、他人の思い出しか湧いてこない」との死の定義は、ある意味理に適っていて、なるほどなあと感心させられました。自己の現世的な存在は肉体あってのことで、その肉体がなくなってしまったからには、無縁なのです。ゆえに、自分のことは記憶から外れてしまうのでしょう。ということで、思い出のシャワーだけが降り注いできます。私は、その思い出の瞬間を目の当たりにしますが、何の作用もできません。できないけれど「よかれ」との思いで抱擁するのです。  

四掌幻話

「鬼の木」冒頭の4行は人間の錯覚を鋭くつき、なるほどなあ、と思わされました。落書きが鬼のように見えて、加えて絵に「鬼」と書いてあるので、ますます鬼に見えてくるのは、観念による招来です。変な匂いのする女→女の腹部を触る→とろりと滲みた女の体液→タクシーの運転手に助けを求める→朽ちた木片。これが鬼の顛末になっています。甘酸っぱい匂いだけが残されており、その匂いの中にバスから子供が降りてきます。三人。そしてもう一人の赤い服を着ている子供=鬼。子供は四人なのですが、街灯に照らされる影は五つで、作品はおわります。木片に正体を現した母鬼なのだろうかと推察しました。次が「石猿」で、その次が「トンキチさん」、最後が「冬薔薇」の四掌編の構成になっています。多くの方は、三番目の「トンキチさん」を一番面白いと言っていました。トンキチさんと傘との交換が、摩訶不思議なユーモアとなって読者を魅了させます。  

薄い

「薄い」は「薄い関係」のことでしょうか。そのことを窺わせる描写で構成されています。冒頭の一行の「ナイフで切ったように夏が終わった」。「ダリの描いた絵」。跨線橋「夕月橋」の袂に立つ女。この女を男は、その筋の女と言いますが、自然にとれば線路に飛び込んだ女ととるのが普通なのではないかと思いました。そして、その女とは、薄い女そのもののような怖さがありました。男が女に対して「骨格が美しい」と言いますが、それに対して女は「足だけで女は生きていけない」と言うのです。足だけで女は生きていけないは事実ですけれど、暗に、足がなくても女は生きていけないのです。ここに裏表の妙なギャップを感じました。女の職場が不動産会社というのも、地場霊を髣髴とさせられます。ということながら、結末になるにしたがい「こちら側」の描写に重点が移り、うさぎで終えられたのは、めでたしめでたしの作品でした。小説の世界が開いてきましたね。  

周回軌道

 冒頭の、三十年前の父との会話を起点として、この作品は書かれています。流れ星のように光って消えた「人工衛星」の様を、地上に転写させているのです。ちなみに、麻雀の卓上のゲームも、天を卓に転写させているのだそうです。現実の東西南北と、麻雀での東西南北は転倒されているのです。ということで、この作品の中心は「周回」に相当する公園であるでしょう。それとともに、個々の星である「人」そのものでもあります。そうした主観と客観の視点からの構成を持つ、見透おしのよい小説なのだと思いました。本格的な小説なのです。ページ制限のためでしょうか、全体としては読みにくくなっています。誰が誰なのか、公園を中心にして、そのどこに住んでいる人なのか、その都度に周回しているのは「何時のこと」なのか、混乱して感じられました。小説の空間は、自己と他者と風景です。それが出そろっています。見えるものが見えてきたのでは……。  

ドロップ、二つ

 天性なのかなと思わせる作品でした。描写は日常に徹していながら、その現実の核心をつくようなところがあります。論理的に掴もうが、感性で掴もうが、表現は掴むことが大事です。なんとなく田中小実昌を髣髴とさせられました。作品の冒頭で坂元真由と木下由利枝の、テーマとは一見離れた会話から始まっています。新人は「絶対あやまらないよね」と。ちょっと矛盾しますが、このことを掘り下げたのが、ユージとポプラの顛末なのではないかと思いました。「わたし、ユージから生まれたかった」「佑二のおとうさんはね、佑二よ」「おかあさんは/産み直すことにしたの」「育ち直す」などなどです。自己である「私」が空疎であるため、肉体や性の具象を借りて自己確定をしている表現方法なのではないかと考えました。現代はなかなかたいへんですね。私などは、「あずさ2号」の歌詞のような一途な恋愛を「し直してみたい」と思うのですが、さて、時代ですね。