2018年5月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:5月20日(日)
  • 例会出席者:13名

お団子

 点描のような作品で、作者にしてはわかりやすい掌編小説になっています。美人で頭のよい女性徒に嫉妬心が芽生え、いじめとなり、ついに人身御供のような事件となってしまいました。それは戦後間もなくのことでした。それ以来、見殺しにした女生徒たちは、その亡くなった女生徒が自殺したホテルに集い、供養するのです。祖母は決まって帰りにお団子を土産に買ってきます。お団子は象徴でしょう。串刺しの団子はお友達だということの確認であり、お団子を食べる行為は、罪の確認でもあります。女学校は小さな社会です。その女学校の一つ一つのグループはなおさら小さな集団です。それなのに、なぜ仲良くできなかったのか。個の捉え方を静かに考える、そのために祖母たちは、その日に、そのホテルに集うのです。個人であり、仲間であることを祈るのです。  

風鈴の紅玉

 前の詩に比べて、わかりやすくなった、とのことでした。冒頭の一行「山から吹き下ろす白い風」の、その「風」の流れに添って書かれているためでしょうか。白い風が吹き下ろし、末尾では、白い風が吹きあがって終わるのです。ただ、非対称性がこの作品に奥域をつくっています。吹き下ろすのは「風」で、吹き上がるのは「列車・闇」なのです。言葉は簡明なのですが、その構造は難解だと感じました。「雪が混じり赤く血がにじむ雪片に結晶/温かい暖炉にレンガの土が/ざらりとふれ/子供の柔らかい手の平が/ぽんとハンコを押し」。特に「雪が混じり赤く血がにじむ雪片に結晶」は、言葉が入り乱れた感じがします。もしかしたら、凝縮した物語なのかもしれません。「雪と血」で「白と赤」、すなわち結婚の象徴、「子供」は希望です。そうと考えると、なかなか意味深です。  

出雲神話殺人事件 Ⅱ

 さて、いよいよ佳境に差し掛かってきたなと思わせる、「殺人事件Ⅱ」です。なんとなく犯人の目星のようなものを感じますが、どんでん返しがあるかもしれませんから、それは完結してからのことにしましょう。ちょっと気になるのは、「出雲神話殺人事件」でありながら、「出雲」の神話と「柿本人麻呂」の歴史の書き込みが少ない点です。柿本人麻呂と出雲の接点も読みどころだと思います。人麻呂の和歌の一首か二首を引いてみるのも効果的でしょう。まあ、そういったことは作品が完成してから書き込めばよいことで、まずは書き上げることが大事です。警部の冷静な捜査手順には、ほとほと感心させられました。先入観を持たず、一歩ずつ事件の解決に向かっています。出雲に旅行してみたい、出雲そばを食べたい、と思わせますから、成功したミステリーでしょう。  

キャロットと十枚の切り絵

 たいへん盛り上がった合評となりました。いわゆる私小説の面白さからくるものだと思われます。作品の作者や、それを読む読者、その双方にとって既知の事柄が書かれ、なおかつ作中の女主人の機微にも触れ、そうした様々な作品の言葉・文章・作品が、この5月20日の合評会にて「さくさく70号」として、目の前に開かれているのです。まったくもって面白い構図です。なおかつ作者の、冊子を毎号飾っている松風直美さんの「切り絵」に対する感謝の念だと思うと、いたれりつくせり、繊細な心遣いには、やっぱりうれしいです。思うに切り絵って、紙を切って絵と成すわけですが、切ったその「切り絵」は切られていなくて、隅から隅まで一つの面・線としてつながっているのです。小説の面白さを、作者はこの作品できっと発見されたのではないでしょうか。  

飛べ!鉄平 Ⅱ

 鉄平の人物像が目に浮かぶようです。子供のころ空を飛びたい、と思い、思うのだけではなく実際に飛んでみます。しかし、失敗ばかりでした。なぜ鉄平は空を飛びたいと思ったのでしょうか。それは当時の暗い世相を受けて、そこからの脱出、自由への憧れだったのではないでしょうか。その「空を飛びたい」は、思わぬ形で実現されていきます。今回の掲載作品は、その技術編のようなものでしょう。事細かく描写されていて、作者に落下傘体験があったのではないかと想像させるほど、リアルです。大地に吸い込まれ、同時に宙空に吸い込まれる、この感覚は「無」の境地なのではないかと思います。ちょっと気になったのは、当時、三国同盟を結んでいたドイツが、落下傘技術を日本に教えなかったところです。そういうものかと、つくづく考えさせられました。  

親友になりなさい 後篇

 恋人は意識するけれど、親友となるとあまり意識しません。でも、この二つのことは、恋人と親友は、性別を外してしまえば一緒のことではないでしょうか。ひとりの人と、ひとりの人が向かい合う、そのことを書かれたのではないかと読みました。かなり難しいテーマです。親友の関係が成り立つためには、まずは最初に「自分」がいなければなりません。キャッチボールはその関係を如実に表す行為です。「受けとめて応える」関係です。この関係を否定するのが「神様」なのだと思います。友達関係が面倒くさくなり、私に従いなさい、となった関係が「神様」なのです。実は、世の中にはこの関係が充満していて、かつて、1970年代に比して、格段に多くなってきているように感じます。きっと、この作品はよい作品です。それに時代にぜひとも必要な小説だと思いました。  

転居礼賛

 転職と転居、とくに転居に焦点を当てたのは、「うしく、うれしく、うつくしく」の、おわりよければすべてよし、の思いのためだったのではないでしょうか。かつては、現在もそうなのかもしれませんが、転職に関しては色眼鏡で見られがちでした。江戸時代の「二君にまみえず」といった儒教的な倫理感が根強く残っていたからかもしれません。ところが戦後の資本主義時代となり、技術革新のためには技術者が必要で、幸いにも作者は並々ならぬその「技術」を持っていました。転職はすれども失業をしたことがないは、その証です。作者の育てている「薔薇園」は、文学市場の面々にとってつとに有名です。この薔薇は、転職・転居の奥様への「ありがとう」なのではないかと……。「うしく、うれしく、うつくしく」の3文字4文字5文字は、「わらべ唄」に深く響きます。  

リョウコちゃん 四

 これまで短い作品に徹してきた作者が、少しずつ分量を増やし、今回は堂々の原稿用紙25枚の小説に書き上げました。まさにおめでとう、です。それにしても、作者がリョウコちゃんを見る目は優しいです。リョウコちゃん、生徒、先生、それぞれの立ち位置をきちんと描き分け、作者はいたずらを仕出かした男子をも裁断することなく、「出来事」として客観描写をしていきます。こうした冷静な描写ができるのは、「今」だからかもしれません。あの時こうしていればよかったなあ、なんて考えながら、それでも事実に即して嘘はつかないのでしょう。もう少し書くことに慣れたら、適度に嘘を書く練習をしたら、より作品はよくなります。それにしても、在ったことを在ったままに書いて、心の中の深いところを表現できるのですか、すばらしいことです。がんばってください