2018年4月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:4月15日(日)
  • 例会出席者:13名

読書雑記 39

 前半部分で、文芸作品を読む態度として、頭は常に「やわらかく」していなければ、世界を理解することはできない、と述べられています。後半部分では、二つの芥川賞受賞作品の評がなされていて、たいへんタイムリーだなと思いました。特に若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』については興味を持って拝読しました。ある「さくさく」の会員の方が言われるには、この作品に何年も前に接したそうです。つまり、作者は何年間もこの作品に手を入れ温めていたのです。その成果が、文藝賞受賞、芥川賞の受賞へとつながったのでしょう。書きっぱなしにすることなく、自分の書いた作品はとことん突き詰めていくことが大事なのだと考えさせられました。この作品には、いろいろな層があって、曲折しながらの「おらおらでひとりいぐも」と読めます。  

歴史を学ぶという事

 歴史を学ぶということは、歴史観を持つということなのでしょうか。それも「自分という個」を通して学ばなければ、有意義なものとはならないという戒めを問いかけた作品なのだと思いました。現在という状況が方向性を失ったり、危機的であったりするときに、「歴史」の存在感は増してきます。かつて戦後のある時期に、花田清輝を中心にして、「記録・芸術の会」という集まりがありました。作家や画家、詩人の集団でした。ジャンルにこだわらず、相互の世界を視野に、歴史という範疇で切磋琢磨するエネルギーはすごいです。司馬遼太郎は日本の各地を訪ね…世界の各地を訪ね、まずその地の「風を感じる」ことから歴史や土地柄を思考されるそうです。そうした真摯な学ぶ態度を私たちは尊ばなければなりません。短いエッセーながら考えさせられました。  

一夜

 作者の作風には、「短歌・詩」と「小説」とで、なにか書き分けのようなものが伺えます。「短歌・詩」の短文形の作品における「自己起点」とした率直な表現と、「小説」における「私を客観的」に視る表現の二刀流で、それは作者に意識された書き分けなのでしょう。今回の詩作品「一夜」の冒頭に、「逃げるように何かに縋りつくかのように」と起こされていますが、この一文が全体を形作っていると思われました。「逃げる」と「縋る」は相反する行為でありながら、自己の内面で生起すると「矛盾」=「自立背反」となって、詩となるのです。何から逃げ、何に縋りつくのか認識できたなら、問題は解決されるのですが、…苦悩するところです。なんとなく尼僧に、この詩を理解するヒントがあるように感じました。リアリズム表現と、幻想的主題の混合した作品だと考えました。  

飛び石と池と

 物語形式に則った小説だと感じました。慎吾の家族にしても、中村さんやその娘である香織にしても、それぞれが個的に立像されていて、なにか人間の方程式のようであります。そんな中での、慎吾の成功と失敗の物語になっています。親子とは何か、夫婦とは何か、社会で生きるとは何か、様々なテーマが俎上にあがっています。さて、時はバブルの時代です。いち早くバブルの終焉を察知しつつ、慎吾は詐欺にひっかかってしまいます。ここのところが、優れた頭脳を持つ慎吾らしからぬと、合評に出ました。まあ、普通ではありえぬ「一瞬」だったのでしょう。この失敗が、義父の作庭した「飛び石と池」の含意であり、世の栄枯盛衰です。養子縁組的な事と、情の通わない個人の捉え方は、作者の目論見なのでしょうか。とてもおもしろいと思いました。  

針金の髪

 こちらの作品は、海藤さんの「一夜」が夜中での描写なら、朝目覚めてからの「一夜の夢」を思い越した作品になっています。手足や肌の白い女と、針金と形容された男、いわば自己内の無重力感を思わされる交接が描写された作品です。針金とは、おそらく黒い男の心の痛みが表象されたものでしょう。白い女は分解された形でしか姿を現わしません。顔であったり、手足であったり、金魚に対照化されて「白い壁の上を/滑らかに泳いでいる」のです。同様に男は針金の髪となって、その先端を白い女、に近接していきます。何枚もの薄皮のような映像がオーロラのように浮かんでは消え、様々に織成して、朝を迎えます。目覚めて、そこに自己を見つけるのですが、まずは幸いなことでしょう。この作品は掌編小説なのか、それとも散文詩なのか、様々な意見が出されました。  

テントウムシの物語

 文学賞には、大雑把に言って、求められるものが二種類あります。考えさせられるものを重視する文学賞。もう一つは、共感できるものがあるかどうかを見る文学賞。この二種類です。作者の作品はとても共感的で、千葉文学賞とか埼玉文学賞には最適と思われるテーマを扱っています。題材は、梨本家の幸さんと、芦田家の剛志君との結婚話です。二人とも学生であること、そこに幸さんの妊娠という事実が先立っての、急遽持ち上がった結婚話なのです。スッタモンダするところを、幸さんと剛志君の誠実さがあって、めでたく、ただし慌ただしく結婚に漕ぎつけます。ただ、書くべき事柄が省略されているように感じました。兄と妹の関係とか、タイトルでもあるテントウムシの分量が少ないです。豊の妻・千夏の妊娠というプレゼントには涙させられました。  

浮気調査 (一)反撃

 文章は端正に書かれていて、うまいなと思いました。題材は「浮気調査」という探偵ものということで、興味津津、読み進めました。テンポよく調査は進んでいきます。浮気調査につきものの、妻の内面みたいなものの描写がないのは、ちょっと残念な気がします。もしかすると「調査」ではなく、「反撃」の方に重点があるのかと思いましたが、前半にて作者の念頭した枚数に達してしまったのか、こちらも後書き的な結論しかなく、女の、妻の情念が描写されると一段とよくなるのに、と惜しい気がしました。特に、子供の写っている写真を見たときの夫人の描写を綿密描写すると、それだけで、読者は納得されると思います。探偵ものということで、探偵からの視点で書かれていますが、「奥さん・夫人」だけでは、やはり臨場感に欠けるのでは…。続編が楽しみです。  

怨恨鏡 (四)

 戦後という時代の小説が持つ文体を、いかんなく著わした作品に読みました。食糧においても、精神的なものにおいても、当時の人々は飢餓状態にあったのです。この作品の当初の「怨恨」とは、城戸静江の亡くなった子供、登志子と吉勝がための、おそらく戦争にたいする怨恨、呪いのようなものだったのではないかと思います。夫の良蔵は、その怨恨をじっと受け止めることしかできません。疎開して助かった真知子と譲吉にとっては、精神的に過酷な日々が続きます。いつしか怨恨は「怨恨鏡」となり、「静江とミツ」「静江と良蔵」「静江と真知子」と、相互の相貌を鏡面に溶融させて根を張るのです。皆が皆、善人であるにもかかわらず、悲劇となります。戦争は時代のうねりであり、戦後も戦後のうねりであり、この作品の結末が開いた現代もうねりとなって今です。