2018年3月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:3月18日(日)
  • 例会出席者:12名

映画日記 47

 私たちは見慣れてしまっていて、このコーナーの良さみたいなものに鈍感になっているのかもしれません。新しく文学市場に入会した方から、こういうまとめ方はすごい、との感想が寄せられました。そのように述べられると、確かに、この〈映画日記〉は、SKさんが長年に渡って工夫した独自なスタイルなのだと考えさせられます。映画人口は、増えているそうです。そこのところが不思議に思えます。観る人と、観ない人に両極化して、なお、観る人の観る頻度が増えて、結果として「増えている」ということなのかもしれません。所得格差ではありませんが、観劇格差です。P182の『ラビング 愛という名前のふたり』にはびっくりさせられました。なにしろ、1950年代のバージニア州においては、「異人種間の婚姻が禁止され」ていたというのですから。民主主義国を謳うアメリカで、非民主的法律が恥ずかしくもなく実効されていたとは、ほんとにビックリします。  

へちま夫人

 毀誉褒貶的な相克の渦中にいる「へちま夫人」を、ユーモアたっぷりに描いた小作品です。すなわち、へちま夫人の人望は、へちま同様に風に揺られて右左するのです。世間の評判は世間によって醸成されるものではなく、自らが構築するものであるとの自意識は、シルバー世代のアイドルともなり、極度のナルシストともなります。しかるに、日常の活躍の場はおおむね、最寄りの無人駅に限られています。毎朝、それに夕方の掃き掃除を休むことなく繰り返します。待合にぶら下がっているカレンダーが三年前のものであることは、まあ、ご愛嬌です。へちま夫人に添えられて紹介されているのが息子で、東京大学を卒業しながら、町の電気店で働いています。息子も落差が激しい方のようです。まともな就職もできませんから、結婚もできません。この母息子は、確かに町の変人奇人です。でも、そこに宿っているエネルギーは、もしかすると希望なのかもしれません。  

魔曲

不思議な感覚の作品だなと思いました。どのように読んだらよいのか、迷うのです。なぜかと考えましたら、主語にまつわる何かなのではないかと感じました。新座沙那に自我はあるけれど、それは日常、つまり現象的な自我で、いつでも状況によって変わり得る自我にすぎないのです。ですから煩わしいことに頓着することはありません。野神涼を好きになりますが、興味を持った神崎萌美と友だちになると、野上涼よりは萌美を選択しています。この作中での「私」に、なんとなく志賀直哉の主語との連関を想像させられました。明確に「私」であるけれど、同時に「私」の無みたいなものが意識されているのではないかと…。深読みするとそういうことになります。ドビュッシーの『西風の見たもの』の曲を知りませんので、この作品の『魔曲』を感じることができませんけれど、とにかく、沙耶と萌美が友達になったのは幸いです。かなり巧みな小説だと思いました。  

秋のゴスペル

 ひとつの小説の書き方かなと思いました。徹の視点からの描写で、すべての事柄が徹という一点に写ったものです。その事柄が、まだ徹の内面にまでは入ってきていません。その微妙な一線の上を、徹の目を通して辿っていくのです。しかも、かなり詳細に描かれていると感心します。大久保の本拠となるゴスペルの会運営の会費や参加者の様々、連携する埼玉や町田、横浜のグループの内情など。先生の歌唱の、高音部の声が弱い点は、かなり決定的かなと感じました。その先生の「マネージャーみたいな顔をしないで」「本当にやりたいことしか、もう絶対にやらない」の言葉は、袋小路に入ったような描写であり、ポイントです。それにしても、様々な人物の名前はきちんと表記されているのに、先生を先生としか表現ないのは、名前がないのがかえって作品上のキーポイントなのかもしれません。名前を出した瞬間に、徹の内面が愛を歌い上げてしまうのかもしれません。  

親友になりなさい 前編

 玉木先生の「親友になりなさい」という言葉から作品は始まります。おせっかいな先生だなと感じつつ読み進めていくと、なぜだか、とてもいい先生だと思えてきました。マックでの二人、「あまりに距離が近いので、もっとテーブルが大きければいいのに」だとか、「確かにわたしたちは女子高生であって女子高生ではないのかもしれない」の描写は、清真な心の描写となっています。これまでの作者の作品は、ストーリー中心だったと記憶しています。それが今回の作品は、全体が内面描写に徹しての小説になっています。その内面描写は直接的に心を吐露するのではなく、個々の具象を積み重ねつつ、徐々に「親友になりなさい」に近づいていくのです。名前に関しても、なかなかに計算されているでしょう。水沢さんとわたしは彼女を呼ぶけれど、水沢さんはわたしの名を呼ぶことなく進み、後半になって初めて、名を呼び合う所まで進みます。水沢鈴香、奈美。さて……。  

モノクローム

 リアリズムに踏み込んだ作品だと思いました。リアリズム文学の定義は難しいのですけれど、易しく言ってしまえば、客観的な現実を前にして書かれた作品ということになるでしょう。この作品ではソビエト連邦の崩壊、受験、15歳、などが現実であります。その舞台に、芳村聖人(マサト)・澤村慶弘・楠本小雪の存在があるのです。この三人のなかでは、マサトが最も一般的な高校生の立ち位置にあります。澤村は、なるほど東ドイツからの帰還者らしく実質を重んじるリアリストです。楠本小雪は不思議な存在となっています。マサトにとっての偶像なのです。図書委員をしていたとき、図書委員として接しただけなのですが、この時の、楠本が書いた「芳村聖人」が徴(しるし)となりマサトに残ったのです。この時、マサトがそれ以上に楠本に踏み込めなかったのは、現実の制約ゆえのことです。三者の逆方向に進むベクトルを描いて、この作品は終わります。  

こけつまろびてさて、今日も  六

 作中に出てくる「ホームスパン」を肩にまとって(宇都木さん・和子さん)の作品合評会となり、「さくさく69号」の最後を飾るに相応しい賑やかな締めとなりました。冒頭の「三姉妹」には、小題からして華があります。私は末っ子、長姉は家を継ぎ、次姉は東京からとんぼ返りをして農業に勤しむ、それぞれ個性的な三姉妹です。末っ子の私だけ描写がなされていませんが、まあ、「こけつまろびて」いるのが私で、この作品全体で紹介しているためでしょう。ばらばらなようで、ばらばらであるゆえに三人仲良く付き合えるのかな、なんて想像しました。皆さんに絶大な支持を集めたのは、「攪拌される脳」でした。作品に書かれた事柄を各自に移して個々の身体状況を披露しつつ話題を盛り上げ楽しみました。ランダムに画面に表示された数字を7個までは答えられるとの箇所では、作者の記憶力の確かさに脱帽です。こけつまろびつ今日も、明日も、明後日ですね。