2018年2月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:2月18日(日)
  • 例会出席者:12名

読書雑記 38

 又吉直樹の「火花」も、最新作の「劇場」も読んでいないので、なんとなく理解しづらい「読書雑記」でした。舞台と観客席、役者と観客の関係性を世界として現わしつつ、見ている「私」の主観を掘り下げた作品なのだ、ということでしょうか。「劇場」という作品を、「観劇」という語でコメントしていることから、そんな風に理解しました。又吉直樹は古井由吉を尊敬していて、古井由吉の方でも、有望な新人として期待しているようです。まあ、テレビで見たのですが…。その番組の居酒屋のカウンターから、又吉は、彼の執筆部屋に向かうのですが、その頃に向き合っていた作品が「観劇」だったのかもしれません。そう考えると、又吉直樹は私小説作家なのかと思われてきます。今のところ、まじめな私小説作家は日本にいません(?)。稀有な存在かも……。  

二重生活

 実質的には原稿用紙二枚半くらいの作品で、この短かさでしか、この作品は書けない小説だと思いました。長くなったら破綻してしまいます。特異な世界は、特異な一点・瞬間にしか存在しえないからです。その証拠に、この子ちゃんは書斎、あの子ちゃんは寝室、その子ちゃんは洋間と、存在できる場所にしか存在できません。三人と賑やかに円満に過ごすことができるのは、「私」が介在しているためなのです。この子ちゃん、あの子ちゃんの二人と結婚し、その子ちゃんと婚約するという異なりは、異なる時間が同じ空間に存在しているがためでしょう。赤ちゃんの「白」は、三人の編集者の赤ちゃんであります。なお、作品は書くものではなく、入りこんだところでの諸々が「現れる」ことによって、残されるのであり、それがこの作品「二重生活」です。見事な構造です  

鴎外の切手

 よくばりな作品だと思いました。弟の稔と、視点人物で兄である晋太郎の、中学生から高校生くらいの間の兄弟関係の微妙さを描きつつ、晋太郎と由起子の青春恋愛を描写しています。これに重ね合わせるように、森鷗外の「舞姫」論が重なってきます。この構成には、微妙なズレがあるように感じました。明治と平成の時代の違いかなと思います。晋太郎には鷗外のような、明治の青年が持つ特有の懊悩がないのです。また、由起子にはエリーゼのような、恋に命をかける情熱が見うけられません。晋太郎と由起子の恋愛は等身大な感じがして、好感を持ちつつ、でも、この作品の主役は鷗外の「舞姫」だと読んでしまいます。なかなか難しいですね。T大学に合格した晋太郎は、森鷗外と遜色ないくらい優秀なのですから、晋太郎の「一人称」で書くのも手かもしれません。  

モノクローム・ヴィーナス

 荒唐無稽を託った作品であるように見えて、かなり構成に苦慮した、思索的な小説だと感じました。でも難解ですね。そもそも『マッカラーズ論』が何たるか、当方に心得はありません。作品は、現実の状況とは異なる層、意味を超えた象徴的言語によって導かれていきます。「そんなに急ぐ会」、レストラン「マッテヨ」、モノクローム・ヴィーナスの名前の「たしか」、ザ・スクールの定冠詞THEを「テヘ」と読む、などなどです。「岩本ゆき子」と「イワモトユキコ」の相関も、なにやら暗示的で面白いです。自殺の一本道ながら、あの世とこの世をつなぐ「蜘蛛の糸」になっているような救いにも窺えます。そのことを感じさせるのは、冒頭のブラックバイトと、末尾の果てしなく続く闇です。絶望に終止符が打たれることなく続くのも、現代においては「希望」であるでしょう。  

飛べ! 鉄平

 戦争時代のモノクロームの子供たちの映像を見ると、暗い時代だったのだなといったイメージを植え付けられます。ところが、技術が進歩した現代、その同じ映像をカラー化して見せられると、やっぱり子供は子供、かなり活き活きした目をしているのにはびっくりさせられます。鉄平を鉄平として現わしたのは、作者のリアリズム的視点による賜物でしょう。この時代、戦況が厳しくなるにつれ、一般国民は「質素」を強いられますが、それに反して海軍兵学校や予科練等の軍服は華美にファッショナブルに演出されます。空を飛ぶという鉄平の夢。空を飛ぶとは、この時代だと戦争と結びつきますが、より一般的には「自由」への希求であるでしょう。私は横須賀にいましたから、この作品に描かれた横須賀の風景には懐かしさを覚えます。早く続編を読みたいです。  

明治文壇の群像 その14

「明治文壇の群像 その13」もよかったですが、今号もとにかく面白かったです。「その13」を読んで、ほんとに田山花袋の「蒲団」はこんな風なのだろうかと思い、つまり、こんなにしっちゃかめっちゃかなのだろうかと思い、私のやっている読書会(Qの会)で「蒲団」を取り上げてみました。十代のころに読んで、それなりによい小説だと記憶していましたけれど、改めて読んでみたら、駒本さんの分析の通りなので、びっくりさせられました。夏目漱石や森鷗外のような文学的格式が、田山花袋には見受けられないのです。もっとも、田山花袋には生の人間の声が突如現れているのですが……。日本文学=私小説の大きな流れは、田山花袋に源流があるのかもしれません。田山花袋は舘林の出身で、その精神文化は、女性を美化する傾向があり、まさに「蒲団」「田舎教師」です。  

ワイン会

 ワイン好きが、ワインパーティに誘われての顛末記です。若い頃の楽しかったワイン会のことが書かれ、仕事を辞めて時間を持て余していたら、幸いにもフラワーアレンジメントに誘われたものの、ちょっとした違和感、そのきわめつけの一コマを紹介したエッセーです。若い頃と、それなりのものを身につけた熟年の対比は、強調していないが、なるほどなあ、と感じさせます。さて、久しぶりのワイン会、時はボジョレーヌーボーの時期なので、心湧き立ちます。とりあえずアレンジメントの会員の五人、そして私が参加することになりましたが、直前になってその五人が五人とも欠席、後々のことを考えれば私は欠席を申し出ることもできず、不安を抱えながらも参加するのですが……。会話のないワイン会、おいしくないワイン、高額な会費、惨憺たるものでした。  

ブリキのオペレッタ

 P58上段の「年はとるもんじゃないな。感覚が弱って、自分がどこにいるのか良く分からなくなる」が基盤となっている作品かなと読みました。学生のころ、本を売るアルバイトをしていて、夢の島に行ったことがあります。ゴミをゴミで埋め立てる広大な海辺でした。幾筋もの煙が立ち、そのうちの一つが火柱を上げ始めたので、「火事です」と、一番近くの人家に駆け込んだら、その火事の意味がまったく通じず、ぼんやりと夢の島をみているのです。作品の「ヴィラ」と呼ばれるアパートは、そんな「夢の島」の上に立っているのではないかと思われました。架空の空間です。そして、その架空の空間に展開された、架空の叙述がこの作品なのではないかと感じました。太一、重美、カメラマンの女は、完全な他者でありながら優しい関係で、夢の関係に在るでしょう。