毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
40句からなる俳句です。この40句を日にち的にわけると、最初の8句までが一日目なのではないかと思われます。次いで、10句が二日目。続く8句が三日目です。さらに12句が詠まれ、四日目となります。そして最後の2句は締めに相当する句であると、理解しました。俳句を四日間かけて、「書き散らして夏が匂う」なのではないかと、類推してみたのです。なにしろ40句なのですから、句の並びの構成はどのようにされているのか考えていたら、そのように思われました。蝉、犬、よその子、蛾、蜂、蛙、蚊、トカゲ、などの虫が天地の中にいて、時間とともに流れる風景の中にただ一人いる己を詠んだ40句だと思いました。トカゲだけがカタカナですが、自分=トカゲの意なのでしょうか。最後の「人と出会ってからの夏の星」は、他の39句と対峙して窺えました。
たいへん面白いです。なんで面白いのか考えていたら、安定感があるからだと思いました。安定感? で、安定感を考えていきましたら三角形が浮かんできました。子と妻と夫の三角形です。子を左角に、妻を右角に置き、亭主を上角に置いた正三角形です。また、これを子と妻をつなぐ辺でもってペタリと返すと、今度は逆正三角形になります。この逆正三角形は、亭主が妻と子を支える形で、亭主にとっては苦労・災難でもあるでしょう。正三角形と逆正三角形をお互いに重ねるとどうなるでしょうか。星のようになります。上記の海藤さんの俳句ではありませんが、「よいこともわるいこともあって 家族」です。病院の窓辺に並んだ四つの尻の描写は、ベラスケスの絵画を彷彿とさせられました。多層的な笑いがあって、まあ、幸せの四つ葉のクローバーだと感じました。
短編小説ならではの書き方で、描写で描き切っているところは上手いと感じました。最初、火難子さんの異常ぶりを書いているのかと思いましたが、果たして、書いてあるのはその通りなのですが、作者がこの作品で書こうとしたのは、読者がこの作品を読んで、その読後感をも計算しての小説なのではないかと気づかされました。火難子をきわどく書くほどに、作者の目論見の輪郭がつかみやすくなります。実は、あまり目に見えない、このクラスの父兄会のお母さんたちが主役なのでは? このお母さんたちの怖さを実感できたら、作品を読めたということになるでしょう。もっとも、こうした読み方自体は私に限ったことで、もしかしたら一般的ではないのかもしれません。さて敏江さん(=読者)は、このあとどうするのでしょうか。父兄会に馴染んだとしたら、最悪。
悲鳴に近い警告に感じました。言語表現する者にとって本当に危機的状況を迎えています。10年くらい前でしょうか。タイトルが〈日本語が滅びる〉だったでしょうか、確かそのような本を読書会で取り上げたことがあります。硬派の女性作家が書いた本と記憶しています。日本語が滅びると、自ずと日本文化も失われるのだとの主張・分析が述べられています。それから10年なのであって、ますます状況は悪くなっているのだと心配です。報告者・西山さんは、その今の流れをどのようにしたら止められるかを、闘う最前線から提起して有意義です。作者も参加している『スコーレ No.4』のますますの成功を願ってやみません。おそらく出版衰退の原因は、教育の問題でもあるでしょう。教育の根幹をわすれて、あれもこれもと手を広げた結果が招いた今なのでは?
SF中のSF、時代の最先端の「?」に挑んだ作品で、興味を持ちました。現実世界と非現実世界の並存はかなり難しいです。テレビなどでよくやっていますけれど、AI技術の世界と量子力学の世界は重なるところが多いらしく、ほんとうに難しいです。いわば、哲学の存在論なのです。もっとも、物理学者でもAI技術者でも、哲学者でもないのですから、与えられた範囲で未来を描かなければなりません。作者には、ご苦労様・頑張ってください、とお願いするしかありません。作者はとてもSF小説に熟達しました。文体が無機的で、そこに描写されている人間にしても物質にしても、未来的存在に描かれて巧みだと思いました。どうしてもわからなかったのは、現実世界からバーチャル世界に「行く」ということは、どのようにして可能なのか、理解できませんでした。
きくえさんが嫁入りに持参した「桐箪笥」が残されてあり、見ている悠介にとっては骨董品のごとく思われるのですが、ここで作品的視点のやや逆転があり、骨董品である桐箪笥に仮託したところからの家族の顛末を書かれた作品になっています。この桐箪笥を伯母の長女は欲しいというのです。なかなか大変な半生を過ごした従妹が欲しいと申し出る事は、家族の歴史にとって好ましい出来事なのではないかと思いました。「受け継ぎたい」という気持はありがたいものです。「いいですよ」と返答した悠介ですが、その悠介は改めて家族の顛末をここに「記す」ことになったのです。祖父母の敷地に分け合って建つ、悠介の家と伯母の家を軸に、家族史が広がります。長編を短く刈り込んだ作品のため、個々のエピソード中心になり、背景がやや不足しているかもしれません。
鬼ごっこと、体育の時間でしょうか、倒立のこと、それから、やはり体育の時間のバスケットのチーム分けのことが書かれた作品です。鬼ごっこでは、鬼ごっこしている友だちと、匍匐前進しているかのようなリョウコちゃんとが並列的に書かれていて、光景の全体的なものが省かれているのではないかと感じました。書きづらいところかもしれませんが、なんとか工夫されるとよいと思います。倒立とバスケのチーム分けは、自立教育の観点なのかもしれませんが、なんとなく教師の指導力不足を感じてなりません。よく書けている作品でした。残念なのは、リョウコちゃんの「声」がない点です。リョウコちゃんの声があると、そこにリョウコちゃんが立ってきます。これも難しいことなのですけれど、ぜひともチャレンジしてみてください。(ちゃんとした小説になります)
完結編ということで、なんとなく正史に戻ったような趣がしました。それにしても、崇禎帝の描写は圧巻でした。これほどの名君がいても、なおかつ、滅びゆく明の悲劇がひしひしと伝わってきました。紫禁城に何万、何十万の兵が満ちた光景を想像するだけで身震いします。そこに龍星、雲嬌の旗印がうねり、恋と戦いの終末を迎えるのです。もっとも、戦場のことですから、二人の恋の結末はなんとなく打ち消されてしまっているようにも感じました。もう一つの場面が、また時間が必要だったのではないでしょうか。明が滅び、李自成が天下をとったけれど、すぐに満州族・清の王朝に替わってしまい、その清王朝は昭和になって日本と対峙するのですから、歴史とはすさまじいものです。雑賀一族の朝鮮半島に居残った、その一点から巻き起こした歴史の華の逸品です。