2017年12月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:12月17日(日)
  • 例会出席者:18名

危うさの向こうへ

 小説には人物を描く作品と、それとは視点を移したところの時間や空間、または内面的風景等々を現わす作品があります。この作品は後者の作風だと思います。出来事等々が他者化していますから、物語的な面白さは度外視されています。時間の経過が町の風景を次から次へと変化させ、それに伴って生活の形態の様を変えざるを得ない中で、「私」は私の町で立ち止まっている、一種の迷子状態なのです。でも、私はこの町が好きだし、この町で生きていこうとします。この町で最後まで生きていこうとの思いが、タイトル「危うさの向こうへ」になっているのでしょう。高邁な哲学ではなく、自分の中にある自らの哲学的視点を構築した作品で、万々歳です。N町に坂本は半年だけ住んだことがありますが、わずか半年のことながら、人は記憶の中に多くを留めるものです。  

出雲神話殺人事件

 推理小説は、なぜか引き込まれます。元来人間は物語好きなのかもしれません。しかも、出雲神話と柿本人麿の絡んだ、たいへんミステリアスな作品ともなると、否応なく、わくわくさせられます。続きものですので、最後まで完結しないとまとまった感想にはなりませんけれど、忘年会の席上で、次で完結されるという意見と、いや、もっと長くなって上中下の三回になるのではないかとの主張がなされました。いずれにしても楽しみです。作中で気になったのは、警察官の階級と役職が不鮮明な点です。警察官には国家公務員と地方公務員がいることによって、ややこしいのでしょう。県警の本部長は国家公務員で、階級は警視正が一般です。思うに、日野隆三さんは地方の一般の警察官試験を受けられ、柳楽凜太郎は地方の上級職だったのでは…二人とも順調な出世です。  

ちょっとだけ

「地元の話を聞きたい」との会員からの要望に応えての、「です・ます調」による報告文による作品です。さらりと書いてあるためか、さらりと読んでしまうと物足りないく感じます。でも少し深読みすると、個々の描写に奥行を感じるでしょう。もっとも興味をひいたのは、P208の下段の後半、ソープ嬢との思い出です。こ行為を交わしたあとの会話であると読むと、とても引き立ちます。ソープ嬢に同情された身の上話とはどんなものだったのか、また、その僕に共感したソープ嬢とはどのような女性だったのか、なんだか美しい場面に思えてなりません。借金の保証人になったがためにソープランドで働いている彼女の事情もわかるようでいて、わからなくて、それを秋田と言えば秋田なのかもしれません。作者はよく見ていますが、その見えた糸口はすでに小説です。  

さくらの夏休み

 とてもシュールな作品です、と言ってしまうと安易でしょうか。とりあえず難しくて短時間では読めない、持ち越しの作品なのだと思います。キーワードになっていのは、「作品のほとんどは、だれかの複製だ」なのだと思いました。人聞きですから詳細はわかりませんが、ロラン・バルトは、「新しい表現・言葉というものはなく、すでに誰かが記述しており、私達はそれを受けて便利に使うしかない」と言っている、と友人から聞いたのです。これを鵜呑みにするわけにもいかず、だからこそ新しい表現を追求するのが文学だろうと思います。こんなことを考えていると、そもそもタイトルがすでに凝っています。「さくらの夏休み」は、もしかすると「桜の夏休み」かもしれません。この季節、桜の木には為すべき仕事はないのです。種子を残せばおわりです。コピーの世界観……。  

蝙蝠

 作者が初めて書いた、内面描写の一点で書かれた挑戦的な小説だと思いました。強烈な自我が、私にしても、宮坂知代にしても描写されています。「こわい」なんて感想もありましたが、女の怖さを描いて確かでしょう。構成の整った成功している小説というものは、うまい作品だ、に留まらなく、なにか「α」的なプレゼントを読者にもたらします。それが何かですが、タイトルの「蝙蝠」に由来しているのではないかと思いました。「会い合い傘」なのか「合い合い傘」なのか、私と夫、夫と知代、それぞれの会い合い傘なのですが、作品を読み終わった段階では、なぜか私と知代の会い合い傘にも感じてなりません。夫が亡くなっていなければこうはなりませんが、なにか「許せる」糸口のようなものが作品から感じられます。「許せない」の言葉の裏としての「許し」として。  

ぼくたちの、ひみつきち 九

 作者は、一年に一度のお目見えです。皆さん、今回の作品にあるヨシダ―の成長ぶりに接して、こんな少年のいる日本の未来は明るいと、楽しく合評しました。もっとも、このヨシダ―がいたのは1960年代なのですから、「?」なのですけれど…。それにしてもヨシダ―の変貌ぶりには目を見張るものがあります。病や死のようなものに接すると、人間は変わるものなのでしょう。四国八十八か所巡りをどのように作品化するか、作者は迷われたそうです。従来のヨシダ―的視点では、とても追い付くものではなく、やや客観の視点を取り入れての作品になったそうです。小説の書き方の参考になります。蜘蛛の中におばあちゃんがいるかもしれないとの描写には、皆さん感動されていました。大人になっても「ひみつきち」を持つことができたら、それこそ良い国になるでしょう。  

怨恨鏡 三

 リアルな作品だと感じました。小説は言葉で表現するものです。言い換えれば、言葉だけではだめなのです。「言葉で表現する」の通り、言葉は表現するための手段です。何を、ですが、その何とは存在ということになるでしょう。言葉と物の一体感がなされたとき、作品は確かなものになり世界が生まれます。今回の作品でいいますと、「母の帯」がそれにあたります。この作品の特異な点は、ロマン文学的な古風な書き方をしておりながら、そこに、戦後という新しい文体が育まれている点です。前者は谷崎潤一郎を、後者は島尾敏雄を彷彿とさせます。冒頭の、静江とみつの修羅場は、現象的には谷崎的世界でありましょう。ところが、それを俯瞰する真知子の目が加わると、なかなかに島尾的なのです。己の身の立つところを失った人物たちの「怨恨鏡 四」が楽しみです  

自称シェフの取鍋

〈自称シェフの取鍋〉〈なにが敬老の日〉〈上か、下か〉〈金木犀〉の四作品からなる随筆です。随筆とエッセーの違いは何なのか、私達はよく考えないで、同じような感覚で言葉を使っています。(もしかすると私だけかも)。まあ、微妙なところでしょう。一点だけ言いますと、「金木犀」にて、ハッとさせられました。作者が書いた最初の「女というもの」なのではないかと感じたからです。P207上段10行目、「奥様はずいぶん敏感なのですね」です。強い金木犀の匂いに接すると、確かに息を呑むようなところがあり、心中をかき乱されます。「母の横顔に一瞬不快そうな表情が」は微妙でしょう。たぶん、この部分に深入りすると小説になるのだと思います。中国から来た金木犀は雄株しかないとの知識には感心しました。柳もそうですよね。雌雄あって楽しいのに……。