2017年11月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:11月19日(日)
  • 例会出席者:12名

映画日記 46

 今回の「映画日記」には、なんとなく「日記」の書き方の工夫が施されているように感じました。もしかすると、こちらが今まで見過ごしてきたのかもしれません。というのは、作品の評価において、★印の他に、作者の印象における評価などが付け加わってきていると感じました。一行で済ませる映画もあれば、二十行かけて紹介している映画もあります。紹介記事の分量と「★印」の数との間で微妙なものが窺え、例え★印は少なくても、作者として好きなタイプの映画なのかどうかが感じられ、共感いたします。作者にとって東中野駅の「ポレポレ」は馴染みの映画館なのではないでしょうか。文学市場の例会後の二次会は、いつも、このポレポレの二階で満喫してまいりましたが、来月からは例会場所が荻窪になりますので、この日がポレポレの最後となりました。ポレポレの立つこの地で戦後、花田清輝・安部公房・等が「夜の会」を始めたのだとか…(?)。  

短歌・蝙蝠の如く

 八十首の短歌には圧倒されました。歌数が多く、季節の移ろいや風景の趣がランダムに飛躍する様は、タイトルの「蝙蝠」に由来するものなのでしょう。風景や季節が主眼なのではなく、蝙蝠の時間、いわば「夜」「闇」に彷徨う「わたし」の歌なのだと感じました。よって、通常の短歌の構成みたいなものは意味をなしません。一首目の「東にて淀みし日々の向日葵よ今は枯木の向うを想う」は、八十首の冒頭を飾るに相応しい歌だと思います。「東」とは東京のことでありましょう。「淀みし日々の」とは満たされぬ東京での日々のことです。「今は」は現在のことで、「枯木」とは現在の私のことです。「向こうを想う」とは錯綜するものがあります。東京のことであるとともに、私のこれからの希望みたいなものです。枯れて大地に立つ向日葵って、実は、このためにこそ命を育んできたのです。なにしろ無数の種子を抱え込んで、己の未来につなぐのですから……。  

切れ者

 源通親を主人公にして、平家から源氏への時代を客観的に描いた作品です。たいへん勉強になりました。ほんとうは、このような作品に接したならば、読んで気づいた事柄を自分でもたどってみると、さらに味わい深いものになるのでしょうが、読んだままに「面白い」で済ませてしまっている不勉強さを反省しています。平家と源氏が真っ二つに分かれて対立したのではなく、双方が互いにねじれあって存在していたのが、この作品ではよくわかりました。しかも、書かれてはいませんが、源氏の側の主力は平氏であることも忘れてはならないでしょう。では何に対する対立なのかです。この作品では帝につながる権力争いです。権力を手にすると、多くの荘園を持つことができます。つまり金です。権力と金にまみれて、荘園制度とともに崩壊したのが平安時代だったのでしょう。通親はそのことまでは理解せずに、家や一族の繁栄を夢見た「切れ者」だったのです。  

犬猫戦争

 分節ごとに読点を入れた文体は、この作品にピッタリな表現方法だと思いました。[1]では、犬猫がそれぞれ人の形をとります。[2]では、人の形ではないところの犬猫となって互いに威嚇しあっています。[3]にて、いよいよ犬猫の戦いが始まります。ところが戦いの最中ながら犬猫は人の姿にもどり、再び威嚇しあうのです。その「二人の女性」を男がなだめて、目出度く犬猫戦争は終結します。[1][2][3]で目出度し目出度しだとなんとなく呆気ない気がします。男を登場させずに、戦い疲れて、互いに物別れるになる終わり方の方が、余韻があったのではないでしょうか。それにしても「一つの世界を、空にして、その世界を、無にして、無の中に一滴の涎を垂らした」の描写は、哲学的表現そのもので堪能しました。分節化すると、その言葉である文節が、物質の原子や粒子の存在とコラボして、見えないものが見えてくる不思議があります。  

父の権利

 問題提起の作品なのかと思いました。「国の自衛権」は国家主権にかかわる問題ですが、そのことを「父の権利」として、家族に移し替えての作品趣向になっているのではないかと推察しました。特に、昨今問題となっている「敵地攻撃」です。敵国から攻撃されると予想される場合、その攻撃を未然に防ぐことも自衛権の範囲内である、との見解です。交換日記の紙面で、娘の「愛由水(あゆみ)」がいじめに遭っていることを、和彦は学校の担任の先生に相談しますけれど、かえってそのことがいじめを拡散させてしまいます。究極の手段として和彦は、その起因となった娘の友達を殺してしまうのですが、どこかの国の独裁者を抹殺しようとする論議とダブります。もっとも、独裁者とクラスの友達とでは、比較することはできないでしょう。安易な、平和と民主主義の逸脱行為は、このような結末と同等であるとの警鐘なのでしょうか。確かに、危険な時代を迎えています  

銘陶成常

 小説は想像力が勝負です。その点から言うと、この作品は抜群です。なにしろ、おもしろさと考えさせる、その二つを見事に実現しているのですから…。天性ともいえる根っからの盗み癖を持った四郎の人物造形には感心しました。盗みは悪いことですが、悪いことだと思わせない書き振りを作者はしています。実存的瞬間とでもいうのか、「物」がなくなっても、そのなくなった事由のわからない別個の世界を創り出しているのです。よって泥棒の痕跡の一切残らない瞬間に四郎は盗みを働くのです。子供の頃に盗んだ「成常」が、価値のある銘陶であることを知った四郎は、実家に盗みに入ります。見事な構成だと思います。結末での母とのこの場面で、四郎は、四郎の心の根底にある無意識の「泥棒癖」を盗むことに成功したのではないでしょうか。落語の人情話にアレンジしたら、かなり名作になるのではないかと思いました。作者の想像力に乾杯です。  

むしろ他人

 冒頭「蝉が鳴いている/周りは森が囲んでいるから、四方八方から聞こえてくる」と、導入されます。物的な境界はないのですが、目に見えないもの、音によって囲まれた不思議な空間を感じさせてくれます。にもかかわらず、透明な空間です。視点人物の主語はなく、金髪でバンダナの大学院生の彼と、「わたし」の二人による作品だと思います。加えて、むかし、むかしの、「わたし」や彼と同様に村から弾かれたジンザブロウサンの、淡々とした小説です。ジンザブロウサンにいたずらをすると火事になるは、いかにも民俗学的で、現代に置き換えるならば「友達がいない」に通じることです。友達になったバンダナの彼を、その恋人だった女性、助教に尋ねられて、「知らない」と応え、その上で作品に『むしろ他人』となぜタイトルをつけたのか、なかなか意味深です。小割された山梨の地で友達、東京という地においてはジンザブロウサンもいません。