毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
発句の「春の月有為転変を見下ろせり」があっての、全作品、80句だと思います。月は〈有為転変〉を見下ろしているけれど、閨に託つ詠者は〈無為〉の時間を過ごしているのです。一句一句を読んでいくと、春と夏と、また春になり、冬の季語、春に戻り、また夏と、どのように構成されているのかわかりづらくなっています。乱れた様を詠者の苦悩と理解できないでもありませんけれど、または、何年かに渡って詠まれた句だともとれますが、うまく構成されないと単にランダムだと思われてしまいます。もっとも、結句の「夏の月想える日々の溶け込める」で、いくつもの季節の思いが去来しての〈春から夏へ〉の句集なのだと、一応は整えられてはいるでしょう。五七五の語数中において、転調があると味わいが深くなります。――古池や蛙飛びこむ水の音――
勉強が苦手なものでよく知りませんけれど、ブログのような作品だと思いました。タイトルと本文との間には、その関係は様々ありますけれど、この作品ではタイトルの向いている先には、いわば読者が想定されており、その読者に向けて「猫見つけました」とメッセージがなされているのです。なので、微妙なものがあります。さて、猫を追いやってしまったけれど、猫を見つけて抱きしめた、という作品です。二文目で、その追いやったことと見つけたことの描写がなされ、結文の三文目で、情景としての客観の描写で終わっています。やや、と言いますか、随分と短すぎる作品で、もっと長く書かれたらいろいろと内容がわかるのに…、との意見が多く出されました。特に、「愛する者同士」の語が唐突で、読者としては「猫と私の関係」に思いが完結してくれません。
作者はこれまで幻想風な作品を多く書かれてきました。今回は、その幻想で終わるといった作品ではなく、まず幻想から入りリアリズムで終わるという、発想を逆転させての作品でありましょう。私と、妻の千絵子と娘の陽子が登場人物です。精神を病んでいる千絵子は短期間病院から家に帰り、夫と散歩、死んでしまった陽子の思い出を夫婦で話しつつ…、回想に入っていきます。死んでしまった陽子が現われ、私は陽子と話します。が、実は反対で、死んだのは私で陽子は生きていることが初めて明かされ、作品は終わっています。私と精神を病んだ千絵子と死んでしまった娘の陽子の関係が、精神を病んだ千絵子と娘の陽子と死んでしまった私の関係に塗り替えられるのです。この挟間に父と娘の近親相姦が明かされます。構成としてはうまくいっているでしょう。
この作品は小説です。なぜか著者が「随筆です」と言うので、コーナーとして随筆蘭に掲載されています。作者がほんとうに見たこと、体験したことなので、それで随筆だと思われているのでしょう。けれど、同じようにリョウコちゃんを見て、果たして作者のように見ることができるかというと、おそらくできないのです。この作品のようにリョウコちゃんを見ることのできる視線が文学なのです。「今井君が好き」はどこにも結びつかない言葉です。その「今井君がいるよ」に触発してのリョウコちゃんの今井君を探しまわる姿、行為は圧巻です。しかも、探し出せずにばったりうつ伏せに倒れたリョウコちゃんの笑い、「ああ、面白い」とは何か。存在しないものを探す面白みに感じました。無いものを探す行為はとても大切な、人間にしかできない「矛盾」なのです。
ある種の寓話作品だと思いました。12歳の或太と7歳の魚子の兄妹。魚子は月曜日を迎えるのが憂鬱です。その魚子に夢を見させるために、或太は神坂にブルーチーズを手に入れるために出掛けるのです。このブルーマンデーが微妙に不整合な感じがします。暴力をふるう父親と、それに無関心な母親だとすると、月曜日には学校という避難場所に行けるのですから、もしかするとうれしいはずです。とにかく、或太は神坂にブルーチーズを探しに出掛けます。神坂はまるでサーカスのような夢の世界です。ヤモリの助言を得て、小さなブルーチーズを手に入れることができました。と、なりますが、現実は一向に変わらないのであって、神坂の「翳」のごときアクシデントは或太の家にも潜んでいます。そうして、やがて自分も父親のようになると恐れているのです。
とても考えられた作品です。一般的に言えば、明留と守は理想的な夫婦なのではないかと思います。ところが明留は離婚されてしまいます。「わたしには子供時代がない。そういうのをすっとばしておとなになった」明留。それに引き換え、いつまでたっても大人になれず、母親の言いなりになっている守です。この二人は両極端ではありますが、相互に理解し合えれば理想的なカップルになれるはずです。なぜそうならなかったのか、明留は守との最初のデートで行ったたらちね山を訪ねます。たらちね山の描かれようは秀逸な着想です。家に居るときには鬚ムクジャラな日暮さんも、山懐に抱かれると少年になって現われるのですから。惜しむらくは、結末での下界との辻褄合わせに急ぎ過ぎたためか、たらちね山のたらちね山としての存在が、やや影をうすくしています。
哲学堂、戸山公園箱根山、飛鳥山公園、新江戸川公園、新宿中央公園の五つの名園を訪ねた作品になっていますが、随筆ではなく小説だとのことです。おもしろい趣向です。確かに、随筆にしてはお約束事の文体にはなっておりません。タイトルにある「お遍路」、「あまねく歩く」ことですが、果たして何を求めて歩くのかといった内的問いを抱えての、とりあえず名園散歩なのではないかと思います。散策途上に出会う個々の描写において、一期一会的な緊張感が窺えます。その緊張感の中にいる「私」は、ただ視ることに徹しているのです。このようにして小説であるのでしょう。飛鳥山公園に初めて遊んだのは、文学市場の檜山さん夫妻に連れられてのことでした。その後、私にとってはたいへん縁のある公園になりました。花見での玉井五一さん。黒田菜摘さんの島歌…。
「ちょっと面白い話があるんだけどさ」と、蓮が今日子に語ることから展開されていきます。推理小説の読書会の二次会にてなされた、浅井圭介と洋子夫婦における離婚話です。最初は洋子や圭介の細かいすれ違いに及ぶけれど、それでは解けない方程式が浮き出てきて、なにか「X」なる第三者が介在しているのではないかというのが、蓮と今日子の成行きになります。今日子はこんなことを話す蓮に不気味なものを感じるのですが、隣りの男、家の鍵に微妙に付着している土のようなもの…と進むに従い、なにやら、この推理小説の読書会に参加している誰もが「犯人」になり得るところまでたどりつき、唖然とします。推理小説の読書会が、推理小説そのものの世界になる怖さは見事などんでん返しです。「スイートホーム」とは家のことか、それとも読書会のことか……。