毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
2016年7月~10月までの四ヶ月間の「映画日記」です。星が五つついた作品が二つあり、『聲の形』と『永い言い訳』でした。監督が山田尚子と西川美和と女性であるのも意外な驚きでした。これまでになかった感性があるのでしょうね。ぎりぎりのところまでいったが、自分に戻れた、という展開も似ているのかと、観てないこちらとしては想像させられました。映画は観ていないけれど、『聲の形』の原作漫画を見たという方がいらっしゃいまして、漫画でこんな深いところまで描けるのだと感動した、とおっしゃっていました。もっとも、ストーリーの「作り過ぎ感」はあったそうです。チリのアジェンデ政権に関する『チリの闘い』は、新しく制作されたものなのでしょうか。というのも、若い頃に観た記憶がありますもので…。クーデター勃発が9・11なのも象徴的です。
亡くなった父の形見分けとして和服を引き継いだ私は、「和服を着こなす」ことに萌えた十三か月を過ごすのです。父の死、その形見の和服に身を包む「喜び感」のようなものが、特に拘って書いてはいないのですが伝わってきます。いろいろ細々した作法のようなものを一つ、ひとつ丹念にこなしながらの十三か月でした。作者は、こんな作品も書けるのですね。感心しました。というのも、長年剣道に打ち込んできたことから、行動ありきの作品を多く書かれてきました。それが今回は、和服を着る、その所作のような和的雰囲気が漂ってきます。まるで別人のようです。注文をつけると、どこかに、大島紬を着て「大島育ち」を踊っている姿を見せてくれると最高だなと思いました。まあ、作者の「萌えぶり」からすると、踊らなくても踊っているような気分なのかもしれません。
白と黒の色彩の表象が素となったところの、現われては消えるもの、消えては現われるものの掌編作品です。父と母と娘という家族が織り成す、母の死です。詩のように物質化された言葉は、言葉自体に存在しており、言葉相互の呪縛から解放されています。父と母と娘は、もはや父と母と娘ではなく、かろうじて男と女なのです。空(父)とは虚しさともとれますが、空間・存在を現わす単なる言葉かもしれません。花(母)とは、「室内に/灯りを入れた」ごとく、意味をもたらすものでしょう。この作品の主人公は娘の「時」ですが、鼻緒が切れたり、爪を畳に突き立てたり、誘うのです。花(母)がなぜ死を願うのか定かではありませんが、迷宮の世界に意味は不要です。「…雪を吸着して、白く染まり、闇が化粧した」などの、見えないものを見させて、秀逸です。
作者の試みとしては、一作で完結の作品ではなく、何作かの作品を書くことによって、この時代に生きている様々な人間模様を客観的に描こうとしているのかもしれません。つまり、人物に焦点を当てつつ、ほんとうに狙っているのは現代の社会という容器なのではないか、そのように感じさせる小説です。主人公の貴美子は絵に描いたような「お嬢様」です。欠点も多々ありますが、おそらくすごく洗練され、変に純情な、怖いもの知らずのところがあります。ゆえに、失恋してしまいます。失恋がトラウマになったとは書かれていませんが、社長業に就いても、夢に恋をするようなところがあり、これも破綻します。貴美子と南田康之と、殺人者になってしまった沙希の三者は似た者同士のような括りで見事です。P285上段の8行目からの描写は、まさに貴美子の実像です。
「一人称が関係性の一部なのです。私は死んだとは言わず、死が私のところに来た、と。ここの言葉は単独では成り立ちません」の一文が、この作品の要点になっていると思いました。話せる人もいなくなって消えてしまう言語を求めて、現地にフィールドワークに出かけてきた「言語学者」です。私と案内人と雨鳥と雷鳥と、亡くなった父を加えて五人が登場しています。この作品はプルーストの『失われた時を求めて』ではあませんが、「失われつつある言語を求めて」といった物語の趣を有しています。言語と存在の一体化した世界。美しい球体の世界です。彼方の国のある地域に存在する言語なのですが、もしかすると、東京の高層ビルの上階の一室で、言葉から真実が消えてしまった〈今〉に佇む作者の「夢」なのかもしれません。関係性の言語は、在って欲しいです。
犬をリードでつないで散歩している光景はよく見かけます。合評会で、「知能指数が220もある犬、クロテンが僕をリードしていく」との面白い発言がありました。主客交代があって、なるほどなあと思いました。SFを舞台背景にしたこの作品で描かれているのは、その「クロテンと僕」との、もしかすると進化や歴史かもしれません。哺乳類であることの歴史や、同等な関係での同朋意識の誕生が窺えます。進化とともに忘れてしまう、失われてしまうものがある、と書かれていますが、クロテンが雌を見て思わず追いかけてしまう様などは、思わず笑ってしまう描写で、なぜだかほっとさせられるところがあります。作者にとっては久々のシリアスな作品で、しかもSFの未来志向に特化しない、犬と人間との友情あふれる作品です。作者の新しい可能性を垣間見させています。
日本の私小説は、フランスなどではある時期までエッセーとして評価されていたそうです。そもそも「私」の主観で糸口をひらいていく手法が、そのように読まれたのでしょう。この作品にある文学的方法論は、代表的な私小説的な作品の書き方だと思います。もっとも、私小説ではなく、創作作品だそうですが…。年末まで食い込んだ急ぎの仕事を終え、正月帰省を逸した私が、一人で年明けを迎えての展開です。家族の回想や、学生のころの彼女との回想が書かれ、「カウントダウン」とは「除夜の鐘」のことではなく、来し方に齢を数えることだとわかってきます。アパートの庭に母の植えた南天の木が、大きくなっても実をつけません。南天は難を転じる木です。息子のために母は植えたのでしょう。……カウントダウンは続きます。風景描写が美しくそこにある作品です。
勉強になるなあと、いつも感心しています。さっそく、トマトの品種である桃太郎とファーストを学習しました。また栽培についてのあれこれを教授されました。トマトの本場であるイタリアを訪ねた旅での、…なんとちょっとした肩すかし状態など、屈託なく構成されていてとても読みやすいです。ペルーやボリビアの黄色い原種と、イタリアの赤いトマトと、どこがどのように変化したのか、とても興味深いですね。テレビで、イタリアのトマトには精力増強効果があると報じていました。では原種ではどうなのか知りたいです。一種の突然変異だと報じられていたかもしれません。そこのところは記憶があいまいです。トマトは、肥料や水をたっぷり施すよりも、ぎりぎりの状態で育てると、たくさん実をつけ、味も濃くなるそうで、人間にも通じる教訓深い植物ですね。