毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
59首からなる短歌作品です。どの歌にも力がみなぎり、読む側に伝わってきます。惜しむらくは、そのストレートすぎる表現によって、詠み手に潜在する歌心の間みたいなものが押さえこまれている点です。冒頭の一首だとか、末尾の一首、あるいは途中の区切りをつける一首などで、技巧を排した赤心の歌ならばよいのですが、大半の歌において、しかも59首ともなると、全体のリズムが失われてしまいます。もっとも、優れた歌がこれほど多く歌われていることには敬服します。「ありふれた生きる営みありがたし世に咲く花の雪に埋もれる」は、抒情的な秀歌だと思います。あえてアドバイスしますと、末尾の「埋もれる」を「埋もれて」にするならば、「埋もれる」の主観に治めるところが、「埋もれて」と、いくぶん客観に流れて余韻が増すのではないかと感じました。
創作であり、なかなかの作品です。異母兄弟の姉の葬儀に列席するために、那覇空港に飛行機で飛び、甥にあたる幸一郎と初めて会うのですが、いじわるだった姉の息子とは思えないほどの好成年だったことから、この作品は始まります。菱村家の後妻となった母、義父である菱村幸蔵、異母兄の幸太郎と姉の幸恵、これら家族内での相克が回想されていきます。家族の中で主人公の「新一」は、兄や姉が父の名前から「幸」の一字を貰っていたのに、他人のような「新一」という名前をつけられた疎外感を持っています。父の死をうけて、家族の決裂は決定的になりますが、決着がつかない内に姉の死にも遭遇し、沖縄の地に新一は立ったのです。沖縄の空と海と風、その心地よさ以上に幸一郎という真人間との出会いは「さいわい」だったと思います。頁が足らなかったかも…。
昨年は春日大社を中心に、今年は法隆寺をメインに書かれており、毎年正月に訪れる奈良の歴史を堪能させてくれるエッセーです。法隆寺の法は、基本的には仏法でありますが、この時代の法ということで、一方の律令制度が整った時代とも受け取ることができます。微弱ながら法治国家の興りでもあるでしょう。だからこそ、作者は奈良に憧れるのではないでしょうか。もしかしたら聖徳太子は存在しなかったかもしれない、と昨今では言われていますが、特定の個人の業績ではなく、多くの人が関わり、苦労の末に打ち立てた奈良の都であったとする方が、古の人々を偲ぶにはよいのかもしれません。法隆寺からの帰り道、茜色になった空の彼方に鐘が響き、「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」と味わう贅沢は格別です。そこにトランプは異質かもしれませんが、なにしろ現実です。
この作品には(一)に続き、(二)、(三)、(四)と掲載予定(?)とのことです。全篇を掲載した後でなければ、おそらく何とも言えませんが、作品には「女」に巣くう毒婦ぶりが如何なく発揮されており、時代の持つ馥郁たる情がリアルに描写されて見事です。三人称作品であり、真知子、ミツ、静江、の三者によるそれぞれの視点から構成されるのかと、この(一)においては推察されます。ということは、いわば「女」というものの視点なのかもしれません。視点の問題は微妙です。冒頭のミツの描写は純然たる三人称による書き出しですが、最初の段落を終えると、急に真知子からの視点に移っています。「長く切れた眼が横に動いた」がシグナルとなっての視点移動だとは了解できるのですけれど、冒頭の箇所なので戸惑います。次回の真知子、ミツ、静江が楽しみです。
小説を書くということに専念した文体を持つ作品です。作品にはどうしても説明を入れたいという思いを抱きます。けれどそれを排して展開だけを書き進めることを通して、読者にも作品での出来事を体験させることになり、小説なのです。文体・文章は軽く表現されていますが、作者にとっては力技の表現なのだと想像いたします。若者の恋愛劇を伝染病と現わし、現代を活写しています。宮井と、私である南は会社の同僚です。宮井→木原優→南→奥村のカルテット構造。ここから伝染病は発生しますが、その発生するということが、いかにも現代的なのです。個性教育を受けて大人になった若者は、自分一人の世界を固持して、他者との関わりが薄く、自分にとってのイエスかノーかの価値観しかないのですから周りが見えません。かくしてストーカーは伝染するのです。
合評するに窮する作品ですね。縦横無尽に、そしてシュールな趣を発揮しているのですが、結論はどうやら「結婚」らしいのです。バッターボックスにて奇異な振る舞いをする土門豪太郎と結婚は確かに面白いのですけれど、小説のテーマは何なのかは不明のままです。テーマのない、落書帳みたいな作品ということであれば、なるほどと感心させられます。さて、どうなのでしょうか。末尾にある二行、「……あんなやつでも結婚できるんだな」「月がきれいな夜だった」が作者の意図だったのでは……。あんなやつという風にシッチャカメッチャカに描写して、「結婚」と結び、「月のきれいな夜」と括るならば、なんとなく希望みたいなものに満たされます。夏目漱石は、「愛してます」を日本語変換して「月のきれいな夜」と喩えています。その眼差しを作品から感じました。
冒頭で杏仁豆腐の蘊蓄を語ることによって、この作品をエッセーとしていますが、本来の形は小説だろうと、多くの方がおっしゃっていました。その通りだと思います。言葉表現は非常に微妙なものであります。創作だろうが、私小説(体験小説)だろうが、そこに違いはないだろうに、私小説で現わされた言葉には「適切感」が伝わってきて、自ずと感動を与えます。この作品の主人公は杏の木で、家の繁栄と衰退を象徴しています。引越しの移植のために、天を衝くほど大木だった杏の木の幹を二メートルくらいに切ってしまい、どうにか根づかせることに成功しました。このことは子供の頃のドラマですが、それは父が亡くなり、亀さんが亡くなり、「僕」の代となった「思い出」なのです。春には花をつけ、初夏のころに実をつける。年々、杏の花の咲く頃は…なのです。
なかなか意味のとりづらい作品です。橘子と寿々子さんとの奇妙な関係のことを書いています。二人は、真反対の人間です。「いなくてもいい人とみなされる人」「いなくてもいい人とみなす人」の関係です。ですが、寿々子さんの言う「あなたはねえ、見たいものを見てればいいの。それでもいつか、わかるはずだから」は、なんとなく、やがて寿々子さんのように橘子はなるのだと言うことなのでしょうか。「日替わりパン」とは弁証法のことなのかと、変に考えさせられてしまいました。それにしても、寿々子さんが夫に食べさせたハムサラダ入りのコッペパンを、橘子にも食べさせる箇所では、殺意を感じました。その怖さは、この作品全体に流れている善意からくるのではないかと思います。善意でできあがった世界に、あなたのためにとの悪意が潜んでいるのです。