毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
山田亮太の詩作品「オバマ・グーグル」のこと、『群像』に掲載された過去の短編作品のこと、またその巻頭における座談会での辻原登の主張、掲載作品については一作品だけ、森茉莉「気違ひマリア」が紹介されています。結び的に書かれた、メイ=サートンの「年をとることはすばらしい」の一言には、合評会に出席した皆さん、勇気をいただいたようです。それと、辻原登の主張した五行に感銘をうけた方が、何人かいました。「進歩も発展も何もなくて」とは何を意味するのか、なかなか意味深だと思いました。辻原登氏の周りに「日の目を見なかった」方々がたくさんいたということなのか、文学的な進歩や発展のことなのか、様々に解釈できるでしょう。また、中上健次・村上龍」村上春樹・吉本ばなな、売れっ子の四人の掲載がないのは、確かに編集の綾ですね。
複雑な構造をもった作品だと感じました。そもそも「かえる」とは何かです。「かえる」を漢字変換すると、「蛙」「帰る」「返る」「変える」「替える」「還る」と、いろいろ出てきます。その「かえる」の兄弟、兄と弟の一年振りの出会いがこの作品です。果たして、兄と弟は生身の人間であるのか、定かではありません。もしかすると弟はすでに彼岸の人のような気がしてなりません。キーワードのごとく「この道」「滝」「ホタル」が記されています。「この道」を行って、兄はまだ「滝」を見たことがありません。「滝」そのものが境界のような気がします。寓話的作品でしょう。その短い寓話に二度にわたり、世俗的な「空気を読む」みたいな社会時評が挿入されているのは、もしかすると余分だったかもしれません。もっとも作者の気持はわかります。好作品の短編です。
詩のような作品だとの感想がありました。また、哲学のようだとの意見も出ました。光と闇、そのことを色で表現すれば、白と黒になります。白と黒は存在と無の象徴で、ほとんど哲学でありましょう。白い生に苛まれ、黒の誘惑に誘われるのですが、私は私でありつづけ、私の病に葛藤するさまが表現されています。見るという実際の行為は「視覚」によるものですが、人間には、その他に、触覚や嗅覚、果ては形を持たない自らの思考すらも存在化させて視ることができるそうです。神や神話は、そうした世界での人間のリアルな行為でしょう。作者が『さくさく66号』で書いた「山嶺の菫」などは、そうしたところの寓話であります。今回の作品は前回の作品から「菫」を除いた作品で、単独者の世界が自己だけを頼りに表現されています。自己を見る視点は幸いです。
ジョークに溢れた作品です。「女房の怨念〈が〉続いてまんねん」と、タイトルの妙に気づくと、作品全体の見通しが開かれてきます。その怨念となった原因が書かれているのが「すり替え話の波乱」です。確かに女性には、冗談を冗談では済ませられない、男とは異なった部分での矜持があるみたいですね。ここのところは、私はいまだに地雷を踏む思いで戦々恐々としています。すり替え話の真実が書かれるのが「悪戦苦闘のピエロ」です。熱烈な結婚だったのだなと滑稽ながらも美談として窺えます。奥様も読んだら納得されるでしょう。とはいっても、娘さんの絡んだところでの嘘情報の蔓延は、「シンデレラ症候群」にとっては許し難く、このことが話題に上がるたびに謝るほかに家庭の平和は保てないですね。この作品は、ほぼ小説になっているとの感想がありました。
過不足のない随筆で、『天声人語』を彷彿とさせます。勉強になるなあといった読後感が、作者の作品からはいつも得られます。今回の「箸」にしても、中国文化の流れをうけての日本独特の「箸文化」で、いかにも「人間」はその土地、その土地にて、生きていくのだということを、行間ににじませているでしょう。おそらく、箸の文化が集大成されたのは昭和の初めころかもしれません。明治になって国民教育制度の確立があり、そこにおける儒教的な様々が道徳的なものとして浸透し、様式となったのです。縦箸、横箸の、中国と日本の違いなどの視点は、それぞれの国の本質を突いているかもしれません。なるほどなあ、の趣です。横箸は「実質よりも慎みとか外観の優美さを尊ぶ/美意識に適う」と置き、でも飯を食うときぐらいは自由でありたいには同感です。
「パッ」と作品を書ける能力はすばらしいです。作者は昨年の秋に入院、手術して、退院、退院してすぐにこの作品を書かれたのです。一般的には、作品を書く場合、その作品の前であれやこれやと迷いが生じて、行ったり来たりするものですが、エイ、ヤッ、と書いてしまうのは、やはり潔い性格があっての能力でしょう。老人病院の病室にて、ただ一人、うら若き乙女…まだまだ若い私の「入院日記」です。はちゃめちゃな患者A、患者B、患者Cは、それぞれが明日の私であると想像させられると、どうしたって反転、恋せよ乙女なのです。美男子で優しい白衣の医師。優しさは私のためだけにあると、すっかり思いこむのですが、退院の手続きの際の、なにやら邪険な態度には理解しようにも理解ができません。この作品から、いくつかの作品が生まれるかも……。
ヒットマンという、まさに切羽詰まったところに焦点を当てて書かれています。鷹也は暴力団員であり、その組長からヒットマンとして白羽の矢を当てられます。いざ決行の車の中で五時間待っている、その間になされた回想がこの作品です。回想は妻の友香のことであり、生まれてくる子供のことです。つまり鷹也は、暴力団同士の抗争のヒットマン、その上に家庭の将来と、二重に切羽詰まった状態なのです。なかなか真に迫る設定だと思います。ただ、おそらく作者はこの状況を書きたかったのでしょうけれど、切羽詰まったに至った経緯のようなものが書かれていないので、これだけだと納得されないかもしれません。単に枚数不足なのです。この点は書けばよいのですから、作品自体の大枠はできています。……組長は、なかなかしたたかな人物ですね。
山田美妙の死を抒情的に書きながら、田山花袋の「重右衛門の最期」と「蒲団」に関する文学的評価がつづられ、明治の文学勃興期の、当時の白熱感が生で伝わってきます。キーマンは柳田国男だと思います。田山花袋の存在を認めさせたのは、柳田による「重右衛門の最後」の評価でした。当時、夏目漱石等は花袋に否定的だったそうです。そこに「なに言ってやがんでぃ」と食いついたのが柳田で、強力な援軍だったことでしょう。面白いのは、その後の「蒲団」に関して柳田が無関心だったとのこと。「重右衛門の最期」と「蒲団」があってこそ、文豪・田山花袋は誕生したのではないか。「重右衛門の最期」は文壇からの支持、「蒲団」は読者からの支持、その双方があって幸いだったのだと思います。「蒲団」こそが、一般に売れる小説の第一号だったのかもしれません。