毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
読み解くことが困難な詩・作品です。どうにか、「大いなる真昼」の痕跡、その再来を求めての詩篇なのだということを感じるのですが、空間や時間をさ迷う思索の葛藤に阻まれてしまうのです。おそらく「個我と忘我」の語意が、この作品のポイントとなっているのではないでしょうか。その構造であるAとB、Aを考えるとBでないことがわかり、Bを考えるとAでないことに失望する、この際限もない葛藤を表現している詩なのです。タフな思考力と、それに耐える忍耐力には感心します。内面宇宙的な世界に、さまざまな鳥や虫、黒猫・痩せ犬、春夏秋冬を言葉に投射、難しいながらも抒情的な趣を含んでいます。根雪の上に降りそそぐ雨とは、自らの魂に、自らの涙を落すことでしょう。真摯な思いの伝わる作品です。もっとも、もう少し易しいといいのですが…。
冒頭の文と、太文字で記してある二箇所が、この作品の骨子だと思います。「落語の/演目は/女の/怪談話だったが/動画を/見た/輝明は/実によくしゃべった」「こんなに/話せる/人だとは/思わなかったと/優理香が/驚くほどだった」と、作品の概要が客観的に描写されています。まるごとがネットの世界なのです。太字の①番目で、リアルな世界からの保証を取り付け、太字の②番目の「あなたを、注文したいんです」でネット内の物語が展開されるのです。ネットの世界を、現代に出現した幻想の世界と捉えての怪談話でしょう。入れ子人形ではありませんが、ネットの世界は入れば入るほど、どんどん入り込んでしまう、あえて言えば、無限の迷宮なのです。優理香とは何者なのか。なんだか、煮詰まらないうちに幕が下りてしまった感じがします。
この後篇を読み出して、なんとなく作者が戸惑っているような感じを受けました。前編を書いたものの、まだ後篇についての構想は固まっておらず、試行錯誤をしているような趣きなのです。とはいえ、鏡子との結婚、健の誕生、敬遠していた釣りの復活と進むほどに、前編にあった作品世界に深く入っていきます。向こう岸で、こちら側にいる私とすっかり同じ動きをする釣り人の描写は圧巻でした。なにしろ向こう岸という対比に、此岸と彼岸の関係を想像させます。昇平です。そこから、人間は一人ではないことに思考が深まり、互いが互いと領域を共有しつつ、重ね合わせつつ「伝え合い」を自覚するのです。夏休みの宿題は「昇平」だったのです。ただ、ミラーニューロンの理論を裸で使用してしまうと、解説っぽくなるので、作品の流れにマイナスかも……。
考えれば考えるほどシュールな、不思議な作品です。置いてきぼりにされた「老い」といったらよいのでしょうか。地球に若者から姥捨てにされたのですが、そこのところの明確な表現はなく、単に、このような作品の空間を実験的に設定したのでしょう。ある意味ではユートピアだとも言えます。ドラキュラになることもなく、永遠に生きられ幸福と言ってもよいでしょう。唯一、退屈であることだけが不幸なのです。よって、町内会戦争だし、AIとの戦争です。目の前にあるものを壊すと、そこに新しいものが生まれるのではないか、といった信仰を人間は持っているのかもしれません。この時代、つまり500年後の世界の自然風景はどのようになっているのでしょうか。自然や、町内会の役員以外の人たち、そこに至るまでの歴史、いろいろと読ませていただきたいです。
定年退職して、有り余る時間をいかに活用するか、それが街歩き・自転車乗りとなって、「お遍路」のごとき心情の小旅行が描写されています。読みやすいとの評判でした。読みやすいとはどのような作品かですが、自分の視点で捉えたものを他者に伝える場合、客観をそのまま損なわないように、控え目に表現すると、自ずと共感が得られるようです。風景描写に感動する読者が多いのも、そこに同じ原理が働くからでしょう。近場の喫茶店等をネット検索し、とりあえず行ってみる。贅沢ともいえる試みです。一杯のコーヒーの湯気の向こうから、その町の雰囲気が垣間見えてくるのですから。作品から感じるのは、昔の自己主張の強い喫茶店から様変わりした、なにかしら人に寄り添うようなアットホームな風景でした。次回は『名園お遍路』とのこと、楽しみです。
かなり刺激的な作品です。小学校三年生である伸也君、亮介君、ヒトミちゃん、アヤちゃん、リョウコちゃん、それに語り手としての私、六人でなされる「英会話教室」の一コマです。英会話教室というのは、日本語を基準にしつつ異言語である英語を学ぶ空間ですが、この異言語的な世界がとてもうまく描写されているでしょう。言葉は人と人とをつなぐツールです。ところが、外国の言葉は知らないのですから、うまく理解できません。言葉を理解するためには人間を理解しなければならないと思います。その人間を「私」はよく視ているのです。リョウコちゃんの持つ異なった時間と空間を理解し、そこに通じる言葉(行為かも)をうっすらと模索する「私」ってすばらしいです。ハロウィンの主役がジャック・オーランタンなのだと、初めて知りました。
作者の書く作品は、どれも作者の周辺の出来事です。一人称を基本としています。しかも、この作品にみられるような耐える女として「私」は登場するのです。私を見ている私みたいなところがありますから、不思議と客観の面持ちのする作品となり、その当時の風景やら情景が鮮やかに浮かび上がってくるのです。もしかすると、こうした作品の主人公というのは、読者にとっては「自分」に相似して考えるためかもしれません。新婚夫婦にはあるまじきしんみりとした未来と恭子の一夜でしょう。昭和四十五年の八月十九日というのも……懐かしいです。同じ世代の者にとっては、隣りのアパートの住人といった感じがして、共感いたします。酒に酔って帰ってきた夫の描写は、なんとなく夫への愛情を感じました。自分への手紙のような作品は、貴重な創作手法です。
おもしろく読みました。その面白さは題材によるところが大きいでしょう。随筆のコーナーにありますが、最初、これは小説ではないかと思いつつ読み進めていました。やがて、順序を追うような書きぶりに遭遇、やはり随筆なのかなと思ったしだいです。恥ずかしい部分を看護師・看護婦に見られることに自己投影して読むと、この作品は何倍にも楽しめます。多くの意見が出たのは、本文の部分と後日譚の不調和に関することでした。これは構成の問題だと思います。本文は本文として終わり、つまり「了」として、本文と離れて「追記」を置き、その後の顛末として書かれたらよいのだと思います。作者の作品全体の描写はリアル感があってよいのですが、肝腎の病名が書かれのは残念です。何だったんでしょう。読者って、そのことがわかると安心するのです。