毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
おそらく、綾香は浮遊霊なのではないかと見定め、作品を読みました。あちらの世界でも、こちらの世界でもない、「あるけれど存在しない」綾香を描いています。それをどう表現したらよいのか、混沌とした「言葉細工」がなされています。面白い掌編小説だと思いました。登場人物は、綾香と、同居人の弘、おかあさん、おねえさんです。はっきりとあちらの世界にいるのは、おかあさんと弘なのですが、おねえさんは何処に居て、綾香と接しているのかは不明なまま……。この作品は東日本大震災を描いた小説、ということで皆さんの意見が一致しました。たくさんの方が亡くなりました。たくさんの方が亡くなったのに、現在のテレビ等に映される光景には、死者も生者も無く、ただ荒涼とした風景があるだけです。その何もない空間に籠めた祈りのような作品です。
完成度の高いエッセーです。まずチャーター便の機上に「ジン・トニック」についての入口篇を語り、「ニューヨーク市長の椅子」で先のジン・トニックの説をくつがえすのです。さらに「謎の氷解」にて、男性の酒・女性の酒のそもそものこだわりを、まさに「氷解」させて円満解決となります。見事さに感嘆するとともに、ふっと浮かんできたのは、「ジン」と「トニック」とは効用の異なる二つが合わさったカクテル、夫婦であることを象徴させて書かれているのではないか、との思いです。昭和、平成の初期、平成の今、それぞれの時代をカクテルした描き方も堪能できます。ジンとはどのような酒か知りませんでした。かつて、松脂から作るんだ、と聞いてそのままずっと信じていたのです。山下公園は関東大震災の瓦礫を埋め立てて出来た、の史実には歴史を感じました。
ジョニーさんが二次会で、日本においては自我を育む教育が欠かせない、と話しておりました。自我が確立していないと、単なる自分の欲求を相手の領域まですすめてしまい、そこで心情を主張するとトラブルになってしまいます。さて、「恋の伝染病」です。南の視点から、友達となった宮井さん、デートをする関係になった木原優、次いで思いが芽生えた奥村さん、それと父と母のことが書かれています。この前編では南と優とのストーカーのごときトラブルが焦点になって運んでいます。前編・後篇にわかれているためか、父と母の関係が、南と優との関係に「伝染」するのではないかと推測する方もいました。さて、どう展開するのか楽しみです。よく言われる「作品世界と現実世界」とは別世界であるとのこと、言葉で表現された純粋な作品世界がこの作品にはあります
前編と後篇は別作品のように感じました。前編は具象的な現実の現象を追った描写が多かったと記憶しています。ところが後篇になると、あらゆる具象が省略され、作品全体が飛鳥の心情で満たされています。前篇を書いて、時間をおいて後篇を書く、その短い期間に作者が成長したのではないかと思われました。一つの作品の整合性にとっては問題ありですが、よい作品を書くということからみれば、万々歳です。テレパシーを出せない『 』にしても、「愛している」の声にしても、また「*印」にしても、私である「飛鳥」を感動的に象徴しています。「*」は飛鳥の涙なのではないでしょうか。「愛している」との歌声は、きっと最後の最後になって、声でも届き、同時にテレパシーともなって聴衆に届いたのでしょう。そして、「愛している」は作者の叫び声でもあります。
私小説の趣を感じさせる作品だと感じました。それが私小説にならないのは、私をやや塾講師の客観の視点で書かれているためだと思います。塾講師である私、かつてのバスケット部の一年後輩である土屋彰、塾の生徒である受験生の谷村との三角構図の上に、現在と回想がなされています。雪が明け方になって雨に変わった、母校の門の前から始まっています。私の淡々とした描かれ方は、前作の「スティション」ともつながっています。いわばスティションが、私の母校でもあれば谷村が今日受験する高校の「門」に置き換えられた感じがしないでもありません。スティションは空間の象徴で、門は時間の象徴です。アキラに言った言葉「声出しがたりねぇんだよ」の反響音が、選挙カーからウグイス嬢の声となって聴こえるようです。そして今のこの時は、谷村君ガンバレです
三角構図といえば、この作品も三姉妹による人生模様です。会ったことのない妹、だけれど間接的に、母のおなかの中にいたその存在とは触れあったことがある。そんな妹からの母の死を知らせる手紙です。手紙はどこから届いたのでしょう。現実においては富山の妹からですが、麻紀子にとっては記憶の中にある、小学生のとき、姉の房子とともに母に会いに行った八王子の郊外の家での光景から生じた幻影からのものだったのではないかと、推測されます。母のつくってくれた黄色いスカートを身につけた房子と麻紀子は、そこに幸せを見つけるために行ったのです。ところが、遠くから見たのは新しい命を宿した、あの人の新しい幸せの姿でした。人生にはいろいろなことがあるものです。麻紀子にしても、房子にしても、かおりにしても、当人の人生であったのです。
電気炊飯器が壊れ、新しい炊飯器の選定にまつわるエッセーです。二層式とIH式を中心に、かなり理科系的な蘊蓄が披露されており、本来ならばちんぷんかんぷんなところを、面白く読める作品になっていて、表現の巧みさだと感心いたしました。時代ごとの世相を挿入していること。義経と静御前の映画。この映画の義経と静御前の関係に、作者のご夫婦を投影している節があり、興味を抱かせます。「使い捨て時代」と言われたのはかなり以前、昔といってもよいくらいです。批判的に言われていたと記憶しています。ところが現代では、「使い捨て」をするかどうか選択する余地すらありません。なにしろ、修理費と新しい商品の値段との間に差額がほとんどないのですから。炊飯器にて実際に飯を炊くのは「おれだ」みたいな締めくくりは、ささやかな円満夫婦ですね。
今回で完結とのこと、作者には心からお疲れ様でした、と労いたいと思います。本来ならば経済本のところを、あえて小説として取り組んでの「老相場師」でした。株の世界からさらに危険な商品相場に飛び込んだことに、最初は驚きましたが、読んでいくに従い作者の「儲かる手立て」があっての相場だということが理解できて、なるほどと感心したしだいです。わずかな資金で、少しの利をとる投資法のところに、トロール漁法のごとき大会社に進出されたらたまったものではありません。現代ではさらに、瞬時に大量売買される時代となり、基本的に個人の出番はなくなってしまいました。ディトレーダーがやっているのは、コバンザメ商法のようなものなのでしょう。怖い時代になったものです。お疲れ様でした。いつか夏子さんにお会いしたいものですね。