2017年1月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:1月15日(日)
  • 例会出席者:6名

読書雑記 35

この読書雑記は、群像の新人文学賞を受けて書かれたのでしょうか。きっとそうだと思います。もし芥川賞との関連で書かれていたのならば、「コンビニ人間」と「ジニのパズル」として論じられたでしょうから。私は「ジニのパズル」を読んでないのでなんとも言えませんが、なんとなく、「コンビニ人間」よりはこちらの作品の方が文学っぽく思えます。芥川賞選考の講評に目を通してみたら、島田雅彦氏が強力に推していたことが目にとまりました。それに反して「コンビニ人間」に関しては、「コンセプトに落とし込み/キャラを交差させ/風俗小説」と、複雑な思いに結んでいます。なんとなく、読者に媚を売る作品と、媚を売らない作品のようだと思いました。とはいえ、村田沙耶香さんは横浜文学学校の出身者です。文学市場の会員である河野さんが、この学校で事務局長の任につかれています。まあ、とりあえず、芥川賞も微妙です。

雲南恋情歌

 非常におもしろい着想を得た作品だと思いました。日本の歴史は、外から入ってくることに限られている風にもっぱら記述されますが、この作品は、その狭い日本を世界史的に捉えたところの広がりを体感させてくれます。この時代の代表は、タイ国での傭兵・山田長政でしょう。当時、アフリカ諸国まで、数多くの日本人が行っていたそうです。この作品に登場している、龍星や虎狼児、白獅鷹将軍などは、作者の創作なのか、それともそれに類した何らかの人物の痕跡に基づいたものなのか、伺ってみたいです。崩れゆく大明国の末期です。その混乱ぶりが、四川州の荘族、雲南の苗族、朝鮮族、蒙古族、などなど、おそらく数えきれないくらいの反乱分子が起ったと推測されます。そこに日本人も。なんだか、中国にうねるダイナミズムを感じます。さて作者はこの舞台の上で、龍星と白獅鷹女将軍との恋情をいかに料理してくれるのか、楽しみです。

さあ、出発だ

 さわやかな覚悟のようなエッセーです。五十代の初めまでは、名だたる高山にチャレンジしていたけれど、ここ最近の二十年は、四十分のウオーキングを天候に左右されず続けています。〈できることを今する〉その心情・信条が「さあ、出発だ」によく現われているでしょう。「町なかは緊張感がないので、毎日欠かさずに歩けて適度な汗と疲労感を得ることが出来る」の一文には、長年、登山に挑み続けた人ならではの体験のほどが窺えます。危機的状況下の自己防衛本能による、「生き延びる」人体的反応。それがウォーキングでは、回想を楽しめます。父のこと。子や孫のこと。その線上にいる自分のこと。オリンピックのこともあれば、自分と同じように歩くことを習慣にしていた、ヴェートーベンのこと。カントやカフカも歩いて着想を得ていたようです。末尾の〈「心の中を歩き」続けよう〉の締めは、自分へのエールであるとともに、生きとし生けるものへの賛歌です。

田舎ありのまま 四

 今回の章は、物見遊山的にはじまった《田舎ありのまま》が、その意に反して後戻りできない展開となっていて、ゴーギャンではありませんが、「我々はどこから来たのか、どこへ行くのか、我々は何者なのか」、唖然とせざるを得ない事態に差し掛かっています。立場家としては、息子の結婚のあれこれが書かれています。しかも、かなり急展開で、なんとなく現実の世界と図らずもオーバーラップしているでしょう。なんだって起こり得る、トランプ氏が大統領になるなんて、だれが想像したでしょう。平和、民主主義、人権、平等、国連、これらが果たして無傷でいられるか不安です。出かけて戻るはずであった立場家の崩壊が、この章での展開です。挙句の果てに、妻が田舎の栃木に行くと言い出したのですから、田舎も都会も、さあ、どうなるのでしょうか。帰京した際の東京の風景描写は秀逸です。立場正浩が栃木人でなければ見えない視点での描写がなされています。

この、温度のある世界

 特異な作品です。新卒で入社したあさがおは、現在、おそらく24歳くらいです。咲也は22歳。双葉も咲也と同じような年齢、22歳くらいでしょう。もっとも双葉は双葉ではなく、作中で命名された日向なので、実際には咲也よりも年上です。もっとも、死産だった日向なのですから0歳かも。ようするに現実を超えたところの存在なのです。作品に登場はしませんが、現実に存在する双葉は別にいます。〈あさがお〉と〈咲也〉と〈双葉〉の三人で展開されています。双葉は現実には存在しないのですから、これを外すと「あさがおと咲也」の恋愛物語ともとれます。三人で展開されるストーリーは家族物語です。つまり恋愛と家族、その二つの構造があるのです。言葉が色を持っている、との感想が出されました。この感想はタイトルとも通じるものでしょう。温度があり、そうして色があるということは、「こころ」があるということにつながります。

夜明け前のハイウェイ

 考えられた構成のある作品です。高速道路を走っているときの一貫した「る止め」の文体、回想場面の「た止め」の文体、また、「る止め」「た止め」の混合する箇所と、拘りをもって表現しています。文体を意識して「書く」ということはすばらしいです。登場人物は「ゆきお」と「ミソ太郎」の二人で、「西に行き滝を見る」の設定になっています。この「人物」と「設定」が多分に抽象性を含んでいて、そのことがこの作品の魅力でもあります。ゆきおとミソ太郎の会話は、会話としてはほとんど成立していません。このことから、ミソ太郎とは何者なのかの疑問が生じます。もしかすると存在しない人間なのかもしれません。遠景、中景、近景の書き分けは巧みです。特に近景の粒子化された表現は、今の瞬間を捉える視点があって確かです。さて、「滝」って何のことでしょうか。今の向こうに身を投げるような感じがあります。だとすると、結末といくぶん不連続です。

祝祭日

 作品を書き始めるときは楽しい。けれど終わらせるのはいつも難しい。と作者が合評の場で述べました。いかにも作者らしい感性です。前編からの登場人物である昇と洋子に、新たにホームレスの男=ヨシアキが加わって、〈祝祭日〉は祝祭されます。この祝祭日を祝祭するといった上書き感覚が、作者の小説を書く原点なのではないかと思います。昇にとって、確かなものは何もありません。何もないけれど記憶はある。その記憶とは何なのか。いたるところに迷宮は広がります。P113下段「雨の中で名前がなくなるような感覚」は、まさに今現在の昇であるでしょう。風車が回っている、おびただしい数のさまざまな色をした風船が青空に放たれる。二十年後の昇と洋子とヨシアキ(登の父であり洋子の父)は、その放たれた風船の中の三つなのかもしれません。お互いに他者なのだけれど、今現在に存在するということによって祝祭された三人です。