2016年12月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:12月18日(日)
  • 例会出席者:16名

仏様

現実を逃避せずに正視したならば、もしかすると個々の多くの終末の細部はこのようなものなのかもしれません。無間地獄です。それを傾聴ボランティアしている千里も、自分の身体では体験していない地獄ながら、いつしか心のどこかで受け取ってしまうのです。作品の冒頭、夕暮れ時に親よりも年上の敏晴の身の上話を聞いている千里から始まります。いつも敏晴が語るのは転落人生の話しかありません。気晴らしに金持ちになるゲームをやらせてみても、不思議と、結果は実人生とすっかり同じ破滅人生です。やがて年老いた千里が若い傾聴ボランティアの女性に話をするのは、男から包丁で刺される話です。結果は、刺された体験のない千里でありますが、心に受けとめた「話」が傷の痕跡となり、その傷の痕跡が積もり積もって、死に至るのです。言霊の物質化がなされた、ホラー作品であるでしょう。別件として、なぜか『山ゆり学園』の悲劇を想起させられました。

孫をあずかる

ちょっとぶきっちょなおじいさんと孫のお話として読みました。冒頭に「室生犀星の詩と、私の孫息子の話である」と置かれてあるために、作品のトーンが、やや室生犀星に引っ張られているように感じられました。この「靴下」という詩を青空文庫で発見した会員が、朗読してくださいました。幼い息子の死を悲しむ詩でした。室生犀星と私の孫の話で、無事に育ってくれよ、との願いのこめられた作品でしょう。詩の内容を知って、はじめて「野辺の送りは御免だ」の意味がわかったしだいです。詩を何行か引用されると、ずっとわかりやすくなると思いました。母親だと、子供は自分の身体から生まれたものだから、どこか自分を扱うように自然な振る舞いができるのですが、男にとって赤ちゃんは、まさに「あずかった」天使のようなもの、なにもかもが未知の体験です。でも、3歳になったお孫さんは、祖父と一緒に散歩したことをいつまでも記憶することでしょう。

夏の夜の夢

冒頭、母がいなくなって自由になったことが書かれています。母はいなくなったけれど、それは施設に入ったのであり、まだ存命しています。つまり、私は自由になったけれど、どこか迷子になったような自由の気分なのです。そこに、やはり飼い猫だか、ほんとうの野良猫だか判別ができない猫が迷い込んできたのです。飼おうか飼うまいか、ここでも迷うのですが、猫と私の交友がすすむと、自ずと「飼う」状態になるものです。猫に名前がつきます。オメガ。萩原朔太郎の詩「Omegaの瞳」から採った名前で、あまりに仰々しいので「メガちゃん」に納まりました。猫との生活、散歩が日課となり、私はオメガの瞳を透して世間・世界の風景を見るようになりました。そして最終場面たる「夏の夜の夢」を見るのです。個を意識すると、孤独の霧の向こうに新たなものが見えてきます。メガ子ちゃんの「ニャン」と鳴く声が、作者の「何」との問いにも聞こえてきます。

すりっぱハンターズ

作風がガラリと変わりましたね。ビックリです。作風が変わって、それに合わせてペンネームも変える。それは、気持をリフレッシュするためにもよいことです。どこがどのように変わったのか。簡単に言ってしまうと、以前は頭の中で考えたことを文章にしていたけれど、今回の作品では、直に視点人物に即したところの描写に徹している点です。作品の世界をうまく読者に理解してもらうために、作品と読者の間に作者が顔を出して仲介しまうこれまでの書き方を一掃、作品の世界は作品であると、明確に区別して、余計なものは入れず、読者の自由に委ねる手法になっています。作者にとっては忍耐のしどころなのですが、このようにすると、作品が作品として立ってきます。「みちひろ君、十さい」「山中道博、二十五歳」「山中係長、五十歳」の表記の仕方にも、道博氏の半生がみごとに反映されています。一生懸命さのユーモア、人間の健気さ、ダイレクトに感じました。

夏休みの宿題 1

作者から、後篇を含めて感想をいただきたいとの要望があり、今回は部分的なものに留めたいと思います。P30上段14行目のシーンは圧巻です。死んでしまっている儀太郎様、鏡台に化粧をしているさまを映す祖母、祖母は背後にいた私が写っている鏡に向かって言うのです。向こうに死んでしまっている「儀太郎様は、まだ釣りをしているかのぉ」と。鏡のマジックの醍醐味の場面だと思います。また、「儀太郎様」の「様」の表記は、なんとなく縄文の文化が感じられ、言語の深層のような気がしてなりません。善光寺文化圏とでもいうのでしょうか。日本において、縄文文化が最後まで続いたのは、東北ではなく、関東圏なのだそうです。八百万の神々というけれど、それは大切なものを敬う敬意でしょう。北関東の私は、近くのお寺を「不動様」と言っていました。また神輿のことを「天皇様」と言っていました。神(カムイ)は制度ではなく、単に大切なものでした。

雑記 8

世相や流行にチクリと一刺ししたエッセーで、見る目が定まっています。ヴィンテージファッション。1990年代。そんなに前のことでしたか。確かに、ボロボロのジーパンをその当時はオシャレとして見ていました。私は釈然としないながらも、ボロであればあるほど高価なのだと聞いて、その高価さにつられてオシャレと納得させられた口です。そのオシャレに乗れなかった「私」は、流行が廃れて、安価になったので買ってはみたものの、「ただの小汚いおっさんファッション」と失望してしまい、十数年前の自分に思いを馳せてペンを置くのです。群衆の先端を行く者と、群衆の後尾についていくしかない者と。そこに何があるのかわかりませんけれど、「今」という時点で悲喜交々は生じます。ネット情報ではなく、自分の絡んだ文章というものは味わいがあります。こんな風に作者の日常や出来事を綴ったならば、小説になるのではないでしょうか。

銀雪

「凛とした冷気が頬を刺す新年の朝。貴美子は幼なじみの友、絹代を見送る…」のです。幸せを見送るところの「貴美子」を描きだし、自省するかのごとく、貴美子の回想が綴られていきます。しんみりとした作品で、構成の確かさを感じました。作品において、その作品の立つ地名・土地というものは効果を発揮します。この作品でいえば、象潟と鳥海山でしょう。象潟と聞けば芭蕉の「奥の細道」です。この象潟は人生=旅であることを象徴して、貴美子の人生の奥深くに入って行きます。締め括りに鳥海山を取り上げたのも、この作品に展望を含ませてうまいです。月山は死の山、鳥海山は生の山だと言います。もしかして、作者の故郷だとすると、そこのところの馴染んだ人情は格別のものがあるのでしょう。ヨメ取り、ムコ取り、養子、交際していた彼。ある時代の、ある時代なりの切なさが淡々と描写されています。次回作品が楽しみです。

ぼくたちの、ひみつきち 8

シリーズの中でも、極めて抒情的な作品に構成されていると感じました。6年生になった吉田武史を、ありふれた日常でありながら、掛け替えのないものとして書かれています。それは6年生という、子供から少年になる微妙な年齢のことでもあります。大事な、いや大好きなおじいちゃん、大好きなおばあちゃんのこもごも。夏休みに行く四国お遍路の旅が、この作品のヘソになっているでしょう。「おばあちゃんが、とは思っていたけど、それが、死ぬっていう言葉とぶつかって、急にとんがって突き刺さってきた」が、武史が初めて直面する「死」でした。冒険好きな武史は数々の生きものの死に出会っているけれど、それは他者・他物の死でした。他者ではない、自分と重なるところの死には、これまで遭遇したことがありません。お父さんやお母さん、少年になった武史、まだ子供の博子、そのいろいろの思いで迎える四国お遍路の旅の夏休みが始まります。