2016年10月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:10月16日(日)
  • 例会出席者:13名

コーヒーの旅

 ――朝から雪が降り続いている――から始まる至福のひとときです。コーヒータイム。コーヒー豆は熱帯や亜熱帯の、昼と夜の寒暖差のある地域で生産されます。その香りと味を雪景色とともに味わう至福の時間なのですが、直接の生産者の不遇であることを知ると、単純に「うまい」とばかりは言っておれません。そこで作者の「コーヒーの旅」は時空間を飛びまわります。エチオピア原産のアラビカ種から出発、現在ではフランス領のレ・ユニオン島の親木から受け継がれた品種が70%を占めるとか、…旅は続きます。それにしても価格形成の問題は深刻です。問題があれば取り組めばよいのですが、国を跨いでのシステムに切り込む法律がないのです。翻って「ゲイシャ」「コピ・ルアック」と、作者からの豆への旅が書かれます。豆と作者の旅が出会う至福の時間…。

読書雑記 34

かなり難しいことを述べていて、さてどのようなことかと、二次会に持ち越しての議論となりました。難しいことは、時間をかけても難しく結論にまではいたりませんでした。現実とは何か。非現実とは何か。議論をどのように立てたらよいのか。なかなか視座を定めることができません。リアリズムとシュールリアリズム。リアリズム文学論はソ連のルカーチによってなされたと伺っています。これを日本に紹介したのは針生一郎さんです。シュールリアリズムはフランスのブルトンによって、シュールリアリズムの綱領が宣言されています。おもしろいことに、リアリズムもシュールリアリズムも共産主義陣営から出てきているのです。リアリズムはスターリン陣営。シュールリアリズムはトロツキー陣営から。これらも、現実と非現実問題のほんの一部でしかないのです。

ありがたい意見が二つありました。庭を客観的に見ているという意見が一つ。それから、庭を主観的に見ているという真逆な意見が一つです。この作品は「です・ます」調で書かれています。「です」の述語はどこか自分に引き取るところがあり、なんとなく主観的になります。「ます」の述語は見ているものとの距離感があり、どことなく客観的になるのです。その主観と客観が丸くなったところが庭のようなものだと考えていますから、主観的・客観的と二つの感想を得て、なんとなくうれしい気持になります。豆打ちだとか、鶏をつぶした光景だとか、それを見た弟が泣いたことは実際にあった記憶で、これは主観的な事柄ですけれど、でもやっぱり記憶の中に投げ入れる客観の目をもって書いたつもりです。十五夜様はとても好きな、静かな庭ならではの祭りです。

三か月

純然たる創作に取り組んだ作品で、作者にとって記念すべき一作になったのではないかと思われます。登場人物は四人、紀夫と尚樹と響子とりほ子です。人物象がなかなか凝っているでしょう。視点人物の紀夫は普通の好人物で、物語の始めには格好のキャラクターです。次に視点人物となるりほ子は、小説であるためにはぜひとも必要な人物です。一章、二章の視点人物の役割分担を経て、この作品はうまくまとまって終わります。読み終わって感じたのは、死んでしまった響子と尚樹が幸せな結婚を営んでいたら、この二人が一番幸せだったのではないだろうかと思いました。「でした」や「だった」の述語、「てにおは」の使い方に気をつけると作品が締まってきます。作中の適切な動きを捉えて、「てにおは」と述語を工夫すると、作品に立体感と動きをもたらすのです。

照星

フランス外人部隊に入隊した矢島毅が、狙撃手訓練を受け合格する、その訓練模様と、並びに狙撃手として実戦参加した「戦い」が描かれています。つとに有名な外人部隊の有様を綿密描写した作品で、とても好感いたします。ツヨシは照星の向こうに実在する敵を身体に感じます。そして、照星の向うにいる狙撃手も、ツヨシをじっと見つめていることを感じるのです。狙撃手と狙撃手が存在する一瞬、敵と敵だという思いは昇華され、吸って吐いて、吸って吐いての反復のなかに時間の止まった世界が出現します。圧巻です。なお、作戦行動において、分隊の兵士を一人ひとり描写したのはよかったと思います。特に、人種差別的な言動をしていたカッフと一緒の任務を果たすあたりは、希望となります。照星の向こうには、同じ人間がいることを描いた作品でしょう。

スティション

おもしろい趣向の作品です。何事も起きない日常を綿密に描写するのですが、それは何も起こらない日常でしかありません。タイトルと作品の内容とが相互補完的になっていて、スティションは空間移動の象徴であり、作品は日常の反復でもって時間移動を象徴しているのだと感じました。幼なじみの女性と百瀬を対照的に描いています。名前のない幼なじみの女性と、名前のある百瀬との違いは何なのでしょうか。なんとなく感じられるのは、日常の反復の内に晒されると、やがて百瀬も名前のない女性になのではないか、ということです。この作品は視点人物の一人称でもあれば、一人称が客観化されてやがて三人称になるのではないか、そうした過程、スティション(停車場)なのかもしれません。いろいろな作品を書いてみるということは、可能性を広げます。

明治文壇の群像 11

ハッとするような「明治文壇の11章」でした。この作品は、基本的に評論エッセーですから客観的な構造になっていますけれど、今回に限ってはその枠を踏み越えた、尾崎紅葉に作者が憑依したかのような鬼気迫る「思い入れ」が試みられています。しかも、その紅葉に対置させた田山花袋の文章が並べられていて、明治初期の文学と、その後に現われた自然主義文学の、つまりは日本文学の流れが「群像劇」となっていて鮮やかです。ここまで力を入れてしまうと、この評論は終わってしまうのかと危惧されましたが、作者には、まだまだ構想はあるのだとのこと、ひとまず安心しました。田山花袋に加えて、島崎藤村などの候補はいろいろとあるそうです。楽しみにしたいと思います。明治とは何だったのか、尾崎紅葉の描写を通して少しわかったような気がします。

田舎ありのまま 三

今回の「田舎ありのまま 三」を読んで、改めて作者のこの作品に込めた意図がわかったような気がしました。立場正浩は都会での非人間的生活を嫌って、田舎暮らしに憧れやってきたのですが、暮らし始めた田舎は理想郷の田舎ではなかったのです。もっとも諦めたわけではなく、現状の田舎に、理想郷の何らかの痕跡をまだ求めています。その立場を迎える田舎では、日々の暮らしにどっぷりと浸かってしまっているがゆえに、己の危機に対して能天気でしかありません。そこに生じた様々なギャップや断絶が面白可笑しく(実は深刻)描かれて「田舎ありのまま」なのです。自分の利益を求めるあまり、自分で自分の環境を台無しにしている「田舎」に、はてさて未来はあるのでしょうか。都会も田舎も住みづらいとなると、私たちはどこで暮らせばよいのか。