2016年9月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:9月22日(祭)
  • 例会出席者:8名

おいおい

目からウロコが落ちるような、ハッとするネット記事紹介でした。確かに、記憶ではサナギを何度もつぶした経験をしていますが(子供の頃ってかなり残酷なことをします)、あのドロッとしたものが何かと考えたこともありませんでした。幼虫から成虫に変わるためのサナギですが、その過程にあたる[生→死→生]の[死]の瞬間がサナギなのではないか、との意見がありました。ひとつ一つの細胞が、ある種の障害を設けても生きるための器官を創っていくという実験結果も驚愕でした。このような情報に接すると、30代の女性がノーベル賞級の発見をしたという、なんとか細胞の存在も本当はあるのかもしれないと夢想させられてしまいます。実験方法次第なのかも…。まあ、地獄に落ちない限りで、人間にとって良い結果の生まれる科学の進歩を望みたいです。

捨てられたもの

従来の作者のモチーフで書かれていますが、今回の作品には奇抜な発想がなされています。このことは最後になってみなければわからず、もっと作品の構成全体でなされていたなら、ずいぶんと変わったのではないかと思われます。P261の上段「母は/父との間に、子どもはいません」、下段「何者かが、彼らの耳に近づきます」、この2行で作品の構造が示されているでしょう。つまり、〈捨てられたもの〉の視点からこの作品は書かれているのです。「何者」とは、〈捨てられたもの〉の客観的に述べられた人称なのです。作者が新しい境地に目覚めた作品として評価したいと思います。幻想的な作品でありながら、これまで、どことなくリアリズムに徹しているところがありましたが、この作品のような表現方法をとると、思考の奥深さが一段とすすみます。

野心の美

確かに「太陽がいっぱい」は名作ですし、アラン・ドロンは美しいです。いろいろな要素がたくさん詰まっている映画だと、改めて考えさせられました。アメリカとヨーロッパの当時の関係は、第一次世界大戦と第二次世界大戦で戦勝国であったアメリカのドルが世界を席巻しはじめた時代にあたります。フィリップとマルジュとトムの、一時の青春が、いずれは露見せざるを得ない犯罪の内に象徴されています。「マルジュの手にゆっくりと口づける、ドロンの青い瞳がクローズ・アップになる」。この瞬間を作者は目に焼き付けたのですね。とてもよいシーンだったと、私も記憶に残っています。ルキノ・ヴィスコンティの「山猫」も好きです。この映画ではドロンよりも、バートラン・カスターが好みです。おそらく二枚目すぎるドロンにコンプレックスを感じるためかも…。

野暮の骨頂・無粋の芋助

作品にリズムがあり、文体にも構成にも洗練されたエッセーです。ゴルフコンペから手ぶらで帰ってきてのアフターゴルフ、馴染みのクラブの店名が「ラストダンス」、というのもなにやら意味深です。お堅い勝田さん、やわらかい尼子さん、そしていくぶん野暮な私と三者三様、いかにも三題話には相応しい舞台が整っています。かつて手に入れたダイアナ妃と同じバッグを、無事に奥様に届けられた顛末は、もしかしたらこの作品を奥様が読むかもしれず、第一関門はクリアといったところです。無骨な勝田さんからの思いもよらぬ「ご関係は?」では、場の一瞬の沈黙→爆笑→若さへの郷愁と、七色の味わいでした。尼子さんの「もういけませんか 残念ですね」は、実際のところどうなの? といった疑問符が浮かびます。述語の切れ味がすっきりした作品です。

祝祭日 前編

冒頭の1行の入り方が特異です。「何もなかった。それが懐かしかった」の一文が何を意味しているのか、色とりどりの解釈が成り立つでしょう。作者はすでに作品を完成させているわけではなく、皆さんの感想を伺ってから、それを参考にして後篇を書くつもりだ、とのことでした。さて、とのような後編となるのか楽しみです。「何もなかった」というのは、昇にしても洋子にしても同じなのだと思います。光の中に存在するもの、そのすべてに対する興味がないのです。昇にとって、闇の中に在るもの、それこそが存在なのでしょう。いまのところ、父の行方不明事件と関連があるとしか感じようがありません。時間と存在にまつわる作品で、無雑作に触れると壊れてしまいそうな題材を、とてもやわらかい筆さばきで膨らませています。

ある懺悔を行う午後

非常に難解な詩です。「私は告解をし教会の内部で行う私の/私の死の遺影に飾られている唾棄された/唾が垂れていく私の写真の牙の生えた口元に/死んでいる私はあなた方を見て死にながら」と表現されていることに、重複した反復を感じます。「告解をし」と「教会の内部で行う」は同じ行為だと推察しますが、それに付随した「私は」と「私の」のズレが、まるで別の世界領域を当てに言語化されているのです。死んだ私、死んでいない私、生きている私、生きていない私と、数々の私が私を追いかけ追いかけられ、時間の存在と非存在も絡み、私は私を懺悔するのですが、救いは……。「私の咲いている桜の花の木の下で私は」の1行は美しい言語表現です。魂の住む郷を彷彿としました。ただし、もうすこし易しい詩を書くことをお勧めします。

共同生活 後篇

力作です。青木ヶ原の樹海で死のうと思った灰原と立山が出会い、共同生活を始めるのですが、そこに智子という小学生が加わっての作品構成です。死のうと思った二人が、今度は生きようとするのです。日常の出来事、山歩きや野歩きを通して、自然との交流にて育まれる日常の描写は巧みです。第七章での立山の「見性」、第九章での灰原の「体系哲学」は、この作品の思想となっているでしょう。もっとも、その点に関しては微妙です。直接的に読者にメッセージを伝えてよいのか、わるいのか、判断が分かれます。それにしても灰原の「体系哲学」は圧巻でした。まあ、後はこの哲学を実践するだけですが、なんとなく智子はその象徴のように感じました。好きなものをあげるところで、最後の最後で、「おかあさん……」と言います。まさに宝石のような言葉です。

祈りの連鶴

風変りな小説です。そのように感じるのも、完全な三人称で書かれているためでしょう。彼と彼女の純愛に託された「連鶴」的な何事かを表現している小説です。万全の構成になっていますが、それでもやはり、純愛の成立感にもの足りなさを感じます。三人称で主要な登場人物の内面をどのよう表現するのかは難しいです。客観描写の積み重ねで対処するほかになく、リアリズムを外れたところの抽象性や幻想性の表現を取り入れたらいかがでしょうか。枚数をもう少し増やす必要も出てくるかもしれません。もっとも、作者は100枚を念頭に書かれたようで、その限度でまとめられたのだと察します。彼と彼女と、彼女の難病の娘、それに白髪の弁護士、それぞれの人物がとても端正な役回りを演じていると思いました。構成に勝った作品です。