毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
いろいろな視点を持って書かれたエッセーです。快い庭作りのアラカルト的でもありますし、植物と人間が共に生きる命のかけがえのなさが描かれています。ぺネロぺという薔薇の名を初めて知りました。この作品を読むと、どのような姿形をしているのか想像できます。おそらく作品構成のなせる技でしょう。ぺネロぺという薔薇の名は、ギリシャ神話、スパルタのイタケの王であるオデュッセウスの妻の名前をとったものだとのこと、「クリーミーから白に移る花弁に淡いピンクが微かに乗っていく。花弁の数は少なからず多からず、形を決めず中輪にひらひらと咲く」の表現はとにかく秀逸です。ぺネロぺの描写としても、また、その描写によって何か日常の奥深さを暗示させているのではないかと、勝手に深読みさせてくれます。「僕の手前勝手は許してほしい」からは、僕のぺネロぺ(僕の妻)を彷彿とさせ、穏やかな庭の空間に落ち着きます。
回想作品です。戦後間もない当時、村祭りの一番の楽しみであった「サンマの姿寿司」を何者かに食べられてしまった事件の、あらましを書かれています。サンマの姿寿司は、その土地ならではの生活の知恵が生み出した食生活であり、今は昔、懐かしい味の記憶でありましょう。「村の人が、タヌキかキツネの仕業だ」と言っていたと話すと、「もし、そうなら、空の重箱に『木の葉』を一枚、入れてあるはず……、彼らはそれぐらいの礼儀は心得ている……」には、なかなか重層的な諸々が含まれています。村の人たち、作者の家族、資産家の存在、かすかにですが、戦後の民主主義が田舎にまで浸透してきている雰囲気、それらが作品から感じられます。さあー、食べようとしたら重箱は空っぽ、この時のサンマの姿寿司の味は、おそらく亡くなられたお母さんの記憶とともに永遠なのだと思います。この作品は小説の要素を多く含んでいます。チャレンジされてみたら……。
小説は積み木細工的なところがあり、一筋縄ではいきません。今回は、これまでの作者の弱点であった「謎解き」においてかなり成功しているのですが、そのことにページ数を費やした結果、そこに登場している人物の情の部分が省略されてしまっていると感じました。「おりく」の生い立ち、人生は、「河童河岸夕景」にぴったりで、このことに着目したことだけで、この作品は成功だと思います。浅草弾左衛門、川徒衆、と、やはりこれまでにはなかった江戸というもののドロドロとした暗部に迫ったことも、作品を深くしています。「おりく」の人間(女)、を描けると、この作品は名作に一歩近づけるでしょう。それから、時代の基本は押さえておかなければなりません。おりくには山源の身代を盗みようがないのです。なにしろ長子相続が原則の時代なのですから…。ここのところにも仕掛けが必要です。それにしても、これまでと異なった「江戸」の趣向、面白かったです。
エンタメ的文体で純文学に挑戦している作品で、妙な、新しさを感じました。合評会の感想で、「存在と日常の二重構造」との意見がありましたが、なるほどなと、感心させられました。作品の内容は、僕(真鍋)と須永さんと駒井さん(中根友美)の三角関係です。この三角関係は現在と、過去である小学校三年生時代といった、二つの時間が重要な役割を果たしています。三角関係にありがちな当然のスッタモンダがあり、作品の運びはその描写に終始するのですが、そこから不思議な、現代に生きる者の孤絶感みたいなものが漂ってきます。おそらく、その何たるかが「甘い噂」、僕が中根友美にキスをした、に象徴されているのだと推察します。キスした、とは書いてありませんが、おそらくしたのでしょう。それはいじめの一環だったのですが、現在においてはどうなのか…。僕は駒井友美さんによって、はじめて他者を意識したのです。しかも、甘い感覚として……。
現代詩が到達したところの地平に立った詩で、難解です。この作品の全体を見渡すことはできませんので部分的に思いを述べます。「心が終わったら迎えに行く」「心が通じ合えれば」のフレーズに相対するところの言葉は、「迎えに行く」と「通じ合える」ですが、自ずから言語の多義性に啓かれています。他者性と自己性の入り混じった文体でしか他者も自己も表現できないのが言葉・言語(心)で、その純粋なものに到達することのできない「こと」を見つめた詩なのではないか、と感じました。過去・現在・未来の異なる時間の中の、事象における私の存在を「君」と現出せしめ、その私を君に託して、なおかつ送り出す詩なのではないかと思います。本来ならば無意味であるような言葉、交差点、学校、廊下、鏡、数式、夜、落下、植木鉢、壁、回転ドア、音楽室、歌声、方角、を詩の抒情に刻むことのできた作品でしょう。詩空間の存在を実感させていただきました。
小説の書き方には書き手の個性があって、その形式・方法をかえることは至難の技です。今回、作者はそのことに挑んだのでは……、まるで新しい境地の小説となっています。それは、ちょっとした視点を取り入れたことによるものでしょう。「客観」の視点から書いたことによって、他者を描くことに成功しているのです。この作品で他者とは、息子の「亮」です。一般的に母子の関係がぎくしゃくするのは、この母子の関係において、母は子を、子は母を、互いに自己の頭の世界で一者として考えるからです。母子とて一者にはなりえないのに、自己絶対化が相手を非難してしまうことになります。この作品はドラマチックな展開はなく、淡々と「こと」が進みます。この淡々と進む日常の描写が純文学の空間なのだと思います。結論だとか、教訓的もろもろのない、世界です。純文学がよいというのではなく、今回は、そうした領域に踏み込んだ作品だということです。
おもしろいです。特にタイトルにはインパクトがあります。『ゴメスの名はゴメス』を連想させられました。「ゴメスの名」=「ゴメス」と、「黒は」=「黒色」は、よく似た構造なのですから。この作品には二つの問題が提起されています。冒頭の「黒は使わない」という問題と、続く「先生が黒板に大きく書いた」、この二点です。つまり、言われた事の問題と、言った先生の問題でしょう。けれど、短くまとめたかったのでしょう。詳細に書かれたのは色の問題に関してで、先生の問題は結論の一言だけで済まされてしまっています。両方とも書かれると、よりおもしろくなったのではないかと思います。小学校一年生にしては難しい事柄を知り過ぎていて、リアル感からいうと不自然なのですが、こうした表現があるからこそ、この作品の醍醐味が生まれるのだと思います。タイトルの次にインパクトがあったのは、「何やってんだよ」の先生の言葉でした。