2016年7月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:7月17日(日)
  • 例会出席者:14名

映画日記 42

今回の映画日記はいくぶん簡略化されていると感じました。いつもよりページ数が少なく、その割には49作品と、紹介されている作品数はいつもの通りでした。そのためでしょう、ひとつ一つの作品に対する記述が物足りなくなっていると思いました。作品数も絞られたらよいのでは…。とは言っても「記録」のようなものなので、苦慮されるのかもしれません。日本の夏はやはり一種独特のものなのか、戦争や紛争ものが多く紹介されていました。数えてみたら10作品くらいが該当します。ところがこの頃では、こうしたきな臭い出来事は回想するだけのものでなくなってきているのが怖いです。合評会の当日(前日のこと?)、シリア・イスラム国問題解決の鍵を握っているトルコでクーデターが勃発しました。貧困と不安定な情勢が世界に広がっていることを感じざるをえません。そもそも人類の願いは平和と民主主義なのに……。

(手短に)最近の所感

忙事の合間に皆さんへのご報告を、といったような作品でしょう。会社で技術部門から法律部門に移動となり、その新しい部署で頑張っている様子がまずは報告されています。そのあと余暇の趣味のこと、日常を充実させていることなども書かれています。そうしておいて、ふいに相対性理論という難しい単語が登場してきますが、これは綾のようなもので、男女の〈相対性〉の難しさにかけている比喩と理解しました。作者にとっては相対性理論よりも男女の結婚の方が難しいのだ、というユーモアなのでしょう。とは言え、作者は女性から振られるよりも、女性を振るほうが多いと伺っています。この点では、うらやましいかぎりです。もっとも作者にとっては、振っても振られても気の重いことなのでしょう。ちなみにペンネームで使用している「長谷川」が、作者の本名になる予定だそうです。それじゃペンネームをどうしようかと、悩んでいらっしゃいました。

すぐそばに

作品の構成はなされているのだけれど、十分に整わないままになってしまったのか、それとも、長い作品の一部を省略しての小説なのではないかと感じられました。冒頭と末尾の部分とが、本文の1~7にうまく融合されていない気がします。「私の心の原風景は東京の下町だ」と「真冬の日本海」との間の溝が「?」なのです。とは言え、1~7までの回想部分に当たる描写はとても抒情的で人情を感じさせます。多感な少年時代の描写に優れています。貧しさと希望が織り交ざって、現在から顧みれば、たしかに日本の最もよき時代だったのではないでしょうか。それにしても色々な体験をされているのですね。友達が好き、人間が好きだということが伝わってきます。面白く感じたのは「2」の「ジョン」のエピソードです。なんとなくシュールな寓話が文面の奥に潜んでいます。作者のファンはたくさんおりまして、いつも楽しく読ませていただいているそうです。

甘い噂 前編

続きものということで、印象的側面の合評になりました。読みやすく、身近にある題材という内容ですが、しっかりと純文学をしていて、感心します。タイトルの「甘い噂」には、おそらくひねりのようなものがあるだろう、と窺わせています。それに、P92下段の「問題を明日の自分に先送りするだけだ」には、両義的な意味が含まれていそうです。一つには、小学生の時の僕が問題を先送りした結果の「今」であることです。もう一つは、文体に含まれる存在論的なことですが、今日の自分と明日の自分は異なる存在者であるにもかかわらず、それを矛盾なくつなげる矛盾、といったような不思議さです。平明で、なおかつ深い表現というのはすごいですね。読者の思惑を裏切って後編は展開されるのだと思います。さて、どのように読者を裏切るのか、その上でタイトルの「甘い噂」の甘さを感じられることを期待しています。

蚤の夫婦

作者はかつて「金目鯛」という秀作をものにしました。これはお母さんの作品で、お父さんのことに関しては筆が向かないのか、一貫して寡黙でありました。それが今回、お父さんに焦点を当て、「蚤の夫婦」として書かれたことは、目出度い(目出鯛)ことだと、こころから喜ばしく思います。お母さんは大きな人で、お父さんは小柄な人、よって蚤の夫婦なのですが、その外見とは裏腹に、お父さんには常に女性の影がちらついていたのです。当時の文学青年という存在は貴種的存在で、それゆえに女性に好かれたのでしょう。色白で女性のような肌であったことも理由だったのかもしれません。「ぼかぁねー」と言ったあとの、お父さんの文学的言辞がひと言入ると、作品が引き締まるような気がします。お母さんは子供の前ではお父さんと呼ぶけれど、二人きりになったときには「直さん」と呼んでいたなんて、なんてほほ笑ましい夫婦だったのでしょう。

おかあさん

意欲的に、いろいろなことを盛り込もうとした作品だと感じました。純文学の趣、サスペンス、それから一種の性小説、それらが構成を施さずに書かれているような気がします。展開の要は私と青松との確執…、私のおかあさん手作りのマドレーヌを青松が捨ててしまったこと、青松の母親の漬物に手をつけなかった私、相互に、母親の好意に対して敬意を表さなかったために生じた「確執」です。奥の登場はいくぶんサービスのし過ぎで、私と青松だけでも十分な作品なのではないかと思いました。「おかあさん・マドレーヌ」の取り合わせは、世界文学、プルーストの『失われた時を求めて』を彷彿とさせるものです。なので、おかあさんと私だけでもよかったかもしれません。実際にあった鉄道事故を下敷きに、創作をしたのだと伺っています。その着想にいろいろものを盛り込むことのできるのはよいことで、後は構成をいかにするかなのではないでしょうか。

老相場師 その五

取引所あっての相場師です。なんと、その取引所が世界で初めて整備されたのは江戸時代の日本なのだそうです。経済の発展した地域に取引所はできるもので、かつての大阪は、現在のニューヨークのようなものだったのかもしれません。あの有名な、「本間さまにはかないはせぬが、せめてなりたや殿様に」から、勃興してくる経済のエネルギーを感じます。この作品でも展開されていますが、株式、小豆、繭、ゴムと、いろいろな商品に手を出していくその根っこには、「利益」の一事があるからです。もっとも、時代はせちがらくなって、利幅そのものは極端に少なくなり、それを補うために大量取引の手法で、より大きな利益を求めるようになってきています。ニューヨークでやっている取引のようなものが、日本でも始まるそうです。1秒間に何百万回もの取引をするそうで、なんだか、原子とか素粒子の世界をすら彷彿とさせます。夏子さんの登場はほっとさせます。