2016年6月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:6月19日(日)
  • 例会出席者:12名

風情・趣のある作品です。庭があって、樹木があって、その庭の空間に小鳥が訪れ、朝となく夕となく鳴き声が澄み透っている日常。一日の時間、月ごとの色変化、一年の様々が、それとなく描写されています。そして、なんといっても鶯なのですが、「声はすれども姿は見えず」の心境は春先の浮き浮きした気分でもあるでしょう。小鳥の寿命はとても短く、梅の咲き初めのころうまく鳴けずにいた鶯が、やがて美しい鳴き声を披露できるようになりますが、この理由は、生まれたてなのか、それとも「歌を忘れた鶯」なのか、考えさせられます。作者の鶯にたいする思いがよく伝わってきます。そもそも「梅琴」自体が「鶯」の「梅に鶯」の比喩なのではないでしょうか。ちなみに、酒に酔わせて鶯をつかまえるという話は、落語家なにかにあったような覚えがあります。「本当の鳥好きは、鳴き声を楽しんだら、放してやるもんだ」は、何事にも通じる名言ですね。

夏の牡丹

いかにも小説らしい小説で読ませます。出来事としては文彦の死があるだけなのですが、その死すらも薄い水彩画のようです。ほぼ全般にわたって色というもののないモノトーンの世界として描かれています。ただ一箇所だけ、病院の門を出たあたりの歩道の植え込みに咲くつつじの花の描写だけが、異様に鮮やかに「女」になっているでしょう。けれど呆気なく文彦の死は訪れ、いつもの静かな光景が繰り広げられます。登場している、みずき、和代、視点人物である夏ちゃん、三者がそれぞれに空気のように存在している作品なのですが、さて、作者の意図はどこにあるのでしょうか。和代を一般的な恋人、みずきは幼なじみ、夏ちゃんを従兄妹と描き、時間系列的にみるなら、夏→みずき→和代の順序になるのですが、その順序の並列化した場合の三者の女を書いたのかも…。

『明治文壇の群像』 その十

いよいよ作品が佳境を迎えてきていることを感じました。最盛期にあった頃の何度かの硯友社新年会なのですが、そこに尾崎紅葉の体調不良が重なり、暗雲が立ち込めてくるのです。際立つのは、尾崎紅葉と泉鏡花との師弟関係でしょう。紅葉の、まるで父親のような頑迷な指図、それに対して鏡花の従いつつもなぜか敬遠気味な対応に徹するのですが、この関係から人間的なものを推測することができます。虐げられた境遇に生まれたというのが、紅葉と鏡花の共通点で、それゆえに紅葉の鏡花に対する肩入れは師弟関係を超えた濃密なものだったのではないか、そんな思いにさせられる章になっています。紅葉が見込んだだけあって、やがて鏡花は作家として紅葉を超え、純文学の系列に数えられるようになりますが、美しい師弟関係のたまものだと言えるでしょう。

こけつまろびつさて、今日も

災難である「謎の文字が通帳に」「バッグに入れるのを見たわよ」の間に、ほのぼのとした「投稿掲載記事をめぐって」を挟んでの三話です。「謎の文字が通帳に」のトラブルは、ゆうちょ銀行の局員の好意によってその場はおさまったのですが、規則上はあり得ないことだとの意見がありました。銀行とゆうちょ銀行の違いによるものなのか、意外と、ゆうちょ銀行は窓口でねばると了承してくれるところがあります。けっこう助かります。でも大きな経営に関して、確かに規則通りにやるのがよいでしょう。投稿掲載記事は、ふくらみがあって楽しいです。親族が集まること自体が楽しいのだし、また、トランプゲームも楽しいものです。楽しさの二乗です。優勝していただく千円は、お年玉の「ン円」よりかはるかにうれしいものでしょう。記憶の分かち合いでもあります。

線香花火はまだ

冒頭の「どうやら新しい朝を迎えられたようだ」から、九十九歳になる私の日常が語りだされます。素朴な人情に包まれながら日々を過ごしている様が、風景描写を通して伝わってきます。新潟県北を流れる「胎内川」、川向こうに聳える四季折々の「鳥坂山(とっさかやま)」などと描写されますと、語感から、なんだか桃源郷の趣すらします。作品は、九十九歳の私の来歴を語り、『遠花火の君』である恭介の回想へと流れていきます。思いのたけを「遠花火消えて死にたいほどの思慕」と俳句に詠んだ私は、この作品にて、線香花火の火花を飛ばすことはすでになくなったけれど、その先端に丸くなった火玉の熱を心に抱きしめているのです。この作品、このテーマは作者にとってとても大切なもので、いつの日にか、100枚くらいの小説にまとめられるといいですね。

クラウン

理解しようとすると難しい作品です。「比喩と地の文が食い合う」ようなイメージのもと、作品を書いたそうです。「比喩と地の文が食い合う」の一言をとっても、なかなかイメージできません。ようするに文章の構造を壊してしまう、ということなのかと考えますが、しかとはわかりません。けれど、作中にも書かれていますが、二匹の蛇がお互いの尻尾を呑み込もうとする比喩、こういったことは現実の世界、あるいは言葉を扱う広範囲の領域では、実際に多数散見される出来事です。例えば、「私は私である」は絶対矛盾だそうです。ところが一方で、「われ思う、故にわれ在り」と言います。この二つは同じことを言っているのに、一方は絶対矛盾だと言い、一方は真理となるのですが、そもそも言葉の抱える問題なのだと思います。この作品の実験を歓迎します。

恢復の構図

論理的客観で書くところの私小説なのかと思いました。作者はエッセーとして書いたそうで、編集は小説に分類しており、その双方を合わせると論理的客観の私小説となります。〈医師の力〉〈孤独の力〉〈利他的な力〉〈人間の力〉と、快復の道筋に沿った構成も論理的です。個々の見解にたいしては様々な蘊蓄を披露した上での運びがなされており、なるほどと感心してしまいます。おそらく、自分を見失わないために、自分の位置を見極めようとする、けれどかえってそのために自分の位置がわからなくなるのだと思うのですが、さて、いかに、です。論理的で整合性のある生活を自分に強いる必要はないのではないでしょうか。と言いつつ、作品は面白いです。「わたし」について、とことん書いてみようとの試みは、多くの副産物を作者にもたらすものと期待が膨らみます。