毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
絵本作家の佐野洋子『ヨーコさんの“言葉”』を題材に、天才について論じた「読書雑記」となっています。「ピカソ=生まれつきの天才」はよく引用されるエピソードです。これはピカソを持ち上げるためのフレーズにすぎないのではないかと、いつも感じています。確かに、子供のころのピカソの絵はすばらしいけれど、ピカソと同じ年頃のダ・ヴィンチの絵は、ピカソよりもはるかにすばらしいのです。ダ・ヴィンチもピカソも幼い頃から絵の技術を習得しました。単に、子供は学ぶスピードが大人より早いということだと考えるのですが……。「子供の頃はだれもが天才」で、大人になるとただの人、との論旨は正しいと思います。でもその普通の人というのは、社会と折り合いをつけた結果の「ただの人」なのですから、天才と凡人という比較に意味があるのかないのか?
とても抒情性に富んだ小説です。正月の三が日を家族で過ごしお墓参りをして、静かになった成人の日の十五日に、夫婦で川越の喜多院に初詣→そして羽生の上新郷を訪れたことが綴られています。田山花袋の「田舎教師」もこの辺りのことを書いているのだと思うのですが、なにしろ読んでいないので詳しくは言えません。ただ言えるのは、この辺りが関東平野のど真ん中だということです。真っ平らな大地、荒川と利根川の氾濫が何百万年もかけて造形した地形です。確かに、そこに沈む夕日は美しいです。赤い太陽の大きさは比較するものがありません。おそらくこの地に立った「裕子」は日常と非日常の境界を没念してしまい、回想の中のもう一人の自分の世界に入り込んだのです。それは初恋の想い出なのですが、この箇所の表現はやや不足しているかもしれません。
ピッピは猫で家族の一員であることが、愛情をこめて書かれています。人間だけの家族テーマの作品もよいですが、そこに動物がはいると層の異なる時間の流れが加わり、いっそう考えさせる作品に膨らみます。シャム猫の平均寿命は13年、ところがピッピは15歳まで生きてくれました。とはいえ、15歳です。男女に違いがあるにせよ、人間の寿命は80歳くらいです。この15歳と80歳の寿命の、生きとし生きるものが一つ家で共に生きる、その喜びと愛情と哀しみが端的に表現された作品です。この地球上で生きるもの同士の連帯感と、通じ合う共感のようなものが感じられます。「ロベエのバッグ」については、出席者の方々の誰もわかりませんでした。貴重なものなのでしょう。その顛末の描写で、作者の奥様へのほのぼのとした愛情が感じられます。
プロの作家さんかなと感じた、と発言があったように手慣れた作品です。内面描写を抑えて、風景描写や行動描写で表現する文体は、確かになるほどと感心させられます。ひとつ例にとれば、立山礼二はひどく汗っかきです。これは、もしかすると基礎体温が高いためかもしれません。肉食系の方は基礎体温が高く行動的なのです。前編の終りのところでの立山の暴力シーンにつながる描写なのだと思います。このように、それとは書かないで、描写をすることでもって人物の存在を表現するというのは、なかなかの筆力だと思います。題材からは若い作者を想像させ、風景描写の確かさからは熟年の書き手を想像させて、合評会でも盛り上がりました。自殺についても同様で、青木ヶ原樹海のあれこれに話題が膨らみました。みなさん、後篇に期待を寄せられています。
たいへん面白い作品です。自由闊達に表現していることがよかったのだと思います。自分で売り込んで飼い猫となったユーリ視点で書かれる作品なのですが、そのユーリ視点は作者の忖度したもので、そこに生じるずれみたいなものが返って活きた作品となっています。というのも、挿入されている人間様の世界、山野草会のエピソードなどは、果たして誰の視点なのかわからなくなってしまうくらいであり、なおかつ猫の社会と人間の社会とが鏡の両面のような相似形なのがおもしろいです。せんじつめれば作中に書かれているように、猫の社会も人間の社会も同じようなものだ、に尽きるのですが…。それにしても夏目漱石の名作「吾輩は猫である」に擬えた、「贋作・吾輩は猫である」はいかにも破天荒で、住みづらくなった現代を象徴しているのでしょうか。
ストーリーとか物語の着想をあらかじめ得た上で、書かれている作品だと思います。小説の書き方はいろいろで、どのような方法をとってもよいのです。冒頭の「百年後も二百年後も……」は、未来を予感させた置かれ方をしています。地域的に人気を博しているソロ歌手である飛鳥未完くんが、メジャーデビューできるかどうかのテレビ出演の日に、交通事故に逢い意識不明となり、現在の医療技術では再生が不可能なため、冷凍保存をして未来で再生するとの作品構成になっています。父親の登場が唐突だったり、音楽の先生が未完くんの声変わりに無頓着だったりしますが、こうした細部に関しては作品を完結した後でも手直しできますから、なにはさておき、作品を完成させることが優先です。お母さんもお父さんもいない、百年後二百年後の喉笛の響はいかに、ですね。
かなり異色の作品です。詩の持つ斬り込む言葉を、散文の骨組に託したような作品であるとの印象を持ちました。とはいえ、とにかく燐と環と紙と亮、妻と夫と子供と父の「背伸びをしながら四人でじっと立った状態から、歩き始めた」という、構成としてはとてもシンプルな作品です。複雑怪奇に感じてしまうのは、過去や未来、現在、宇宙、芸術論的側面、リアルと幻想が何度も錯綜して描写されているためだと思います。ふんだんに使われる形容詞はまるでジェットコースターのようであり、気を抜くとたちまち振り落とされてしまいます。子供の「冬」の名前が「紙」にかわる、そこのところの描写があまりうまくいってはいないように感じました。「冬」と「紙」の間には断絶があるのではないかと思います。厳しさから、白紙の自由な時間の到来、「紙」は希望なのです。
人工知能の未来を考える、なかなかおもしろい小説(SF)です。ベイカーはおばあちゃんのための介護ロボットです。そして家族の一員でもあります。そのためにベイカーは、ジェシーとも、おばあちゃんとも「約束」をしますが、その約束はおばあちゃんを中心になされるようにプログラムされているのです。ベイカーは優れたロボットですから、人間の心、いわば秘密を学んでしまったのです。おじいちゃんは死んでしまった。死んでしまったけれど、おばあちゃんの心の中にはおじいちゃんがいる。おばあちゃんはおじいちゃんに会いたい。「おばあちゃんをおじいちゃんに会わせる」、これが、ベイカーがおばあちゃんとの間に交わした「約束」だったのでしょう。人工知能が進んだときの危険、ロボットが人間になってしまうかもしれないとの危惧、さて未来はいかに…。