2016年4月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:4月17日(日)
  • 例会出席者:9名

バスの中

「所用があって、本荘駅まで電車でいくことになった」と書き出されます。車窓には秋の終わりをうかがわせる小雪が舞い、対する車内の温かさと対照をなして表現されています。もの思いにふけるには格好の場面であるでしょう。本荘駅でバスに乗り換えるのですが、そこで25、6歳の女性から声をかけられる出来事がこの作品の中心になっています。ここのところで微妙な感じを受けました。というのは、これは随筆なのか小説なのかといったもので、この部分だけを考えると小説なのかもしれないなと思わされました。実際、年下の女性から声をかけられることって、なかなかあるものではないです。もちろん「捨てたものではない」のかもしれませんが…。描写がやわらかく、創作の糸口がたくさんある文章です。その25、6歳の女性との再会をぜひ書いてください。

天国列車

現実と幻想の世界を逆転させる描写がなされていて、時空間の恣意性を冒険的に表現した作品のように感じました。そもそも西武新宿線の新宿駅は、現実として捉えるなら「始発」駅なのですが、それを「終点」と表記するとき、リアルから→幻想、そして幻想から→リアル(シュールリアル)といった反復と逆転がなされるのです。西武新宿線の新宿駅近くに時間の流れないネイティブアメリカンの小さな通りがある。けれど、今年の冬にはこの通り自体が閉鎖になってしまいます。そこで天国巡りの小旅行を思い立ち電車に乗り込みます。天国で死者たちは生きています。邂逅をへて終点の新宿駅にもどるとすでにあの通りはなく、女主人と二人で静かな場所で暮らすことを期すのですが……。抒情性に溢れる作品だと思いました。女主人の存在の描写に成功しています。

本郷油坂追分番屋

江戸情緒を描いて巧みな作品です。描写する言葉の端々から暮らしぶりが浮かび上がり、まるで見ているような感覚にさせてくれます。ただ気になるのは、事件に関して、その事件を解決する側の「内輪もの」に偏り過ぎてないかという疑問です。時代小説、捕り物、江戸、というキーワードのもと、それらをどのように構成するかが書き手の勝負となるのですが、その場合、やはり犯罪を犯す者の人情とか悪人ぶりなのではないかと思われます。悪人を悪人として描き、その悪人振りのさまざまが江戸情緒のなかで展開されるなら、申し分ないことでしょう。この点を踏まえると、いろいろと良い結果に結びつくと思います。悪人が善人の心をわかるのが難しいのと同様、善人が悪人の心をつぶさに表現するのもまた難しいものですが、でも、それは作者の目の前にあります。

読書街を散歩すれば 二

おもしろい構成による随筆です。冒頭の十行ほどは、知性空間に切り込んでいく達観した「知性武士」みたいな心意気の表現がなされ、とはいえエンタメ系が好みだとの陳述、著作の紹介をして、おもむろに純文学系と目される芥川賞に関する二作品に切り返しての「読書街散歩」です。エンタメと純文学についての作者の目線などは、結局のところ、おもしろい作品がよいのだと述べているようで、正論でしょう。どのような作品であれ、文字で書かれていること以上の意味を作品から読み取ることができるから読書は楽しいのであり、読み取ることのできた意味は読者の宝物となります。読んで、書く、そのことが「読書街を散歩」する者の基本です。散歩なのですから、肩肘張らずに気楽に思いを遊ばせる、確かにそのおおらかさが何よりも大事なことですね。

光の記憶

ドンと読者におそいかかってくるような作品です。この作品はもともと100枚ほどの枚数があったものだそうです。それを短くして掲載されています。そのためなのか、会社の描写のリアリズムと、家族間の情の相克がうまくミックスされないまま、お互い独立して表現されているようにも見えます。タイトルの「光の記憶」はピッタリだなと思いました。本来ならば「黒い記憶」なのですが、その黒い闇の記憶を見つめると光となって消えてしまう、消えて光となった記憶を見続けると、そこにお姉さんの像が浮かび上がってくるのです。鳩の死、父の死、行方のしれない姉、母。もしかすると「僕」は、それらの家族の象徴としての死に向かっているときが「光の記憶」なのであって、あこがれの瞬間なのかもしれません。そして、すべての光としての光は「お姉さん」なのです。

ピリオド

不思議な作品です。ある見方をすれば普通の小説です。ところが小説を味わおうとすれば、登場人物たちは作品の構造の中にいて、直接的には読者に触れられない構えをしているでしょう。「戦後の民主主義は一体何だったということになるね、母さん。自己主張のないところに改善はない……」の一文でもって、そのことを端的に示していると感じました。地主と小作人、栄太と菜穂子との奇妙な愛。母親と地主の本田誠一郎との関係も、愛と生きるための打算が絡んで微妙です。タイトルの「ピリオド」も二重の意味を含んでいると感じます。一つには、直接的な栄太の死です。もう一つは、戦前と戦後にピリオドを打つというような大きな視点があるのではないかと思いました。もっとも、果たして現実はそうなっているかといった問題提起を書かれた作品でもあるでしょう。

人魚姫の子ども

とても読みやすく、児童文学に適した文章になっています。タイトルがやや変化球で、考えないとよくわからないのが、ちょっと? でした。現実世界であっても、「鈴さん」は死んでしまっているのですから、死んだ者にとってこの現実世界は異界にほかなりません。ですから自由に動くこともできません。そして、その例えが人魚なのです。また、人魚の子どもは周音です。結末から類推すれば、人魚とは天の川の住人のことなのではないでしょうか。作者にとって「天の川」はキーワードなのでしょう。前回の作品と異なっているのは、現実と異界の境界線が地続きになっている点でしょうか。クロウ山が、電車に乗っていくといつの間にかクロウ山なのです。別の世界に踏みいれていることを示す描写があった方が、読み手の児童には鮮やかにイメージされると思います。

暮れの騒動

タイトルの通り、年の暮の騒動であります。普段は外向きの仕事や用事を中心にかまけていても、この時期ともなると、なぜかどの家庭も内向きになり、元旦を迎えるための「身づくろい」に精を出すのです。年をあらためる行事が元旦なのです。そこで一大事が勃発します。引き戸が壊れてしまったのです。直そうにも、夫婦にはその心得がなく、暮れのこの時期どの業者も応じてはくれません。そうこうしていると、助っ人が現れます。ブルガリア人のゲオルギ夫妻です。ブルガリア人は皆家造りの名人で、修理などはお手のもの。晦日、大晦日となり、年の暮れを実感しつつ、同時に人生の暮れを迎えるような心持になりつつ、「二人で一人前です。よろしく」と元旦の挨拶を考えたと作品を結んでいます。人によってまちまちですが、確かに、特別な元旦はあるものです。