毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
とても刺激的な作品です。それは読者にとってもそうであり、作者にとっても刺激的な作品を書いたのだという自覚が得られた作品なのではないか、と窺わせる一品です。これまでの作風から一歩前に進んだと感じさせてくれます。小説の構えがふくらんで感じられます。引きこもりだった青年が自己の葛藤を経て、世の中、世界というものを徐々に掴んでいく、その過程を鮮やかに表現しています。ただ、作品の前半と後半とで表現方法が異なっていますが、これは作品を終わらせるための〈省略〉が作者に働いてしまったためかもしれません。前半の竹田智久とゆめと僕との海辺のシーンは、これは「ぼく=徳大寺」の幻覚ですが、とても美しい描写になっています。〈ゆめとぼく〉との幻想風な展開の先に、クマムシ状態からの脱却が図られるのかなと思っていましたら、かなりリアリズム的な、新聞配達や映画のエキストラの挿話が入り、血の通った肉体を自分に取り戻して終わっています。やや構成に問題があるとしても、作品世界の透明感は抜群にうまいです。
この作品はかなりシュールな趣向の小品なのではないかと、考えさせられました。内容・テーマはシュールなのに、文章的にはリアリズム色が強く、少しわかりづらくなっています。猫とはそもそも何かですが、「猫=魂」あるいは「猫=心」、なのではないかと推測されます。いわば、「節子が猫になるまで」の奇譚が、この作品なのだといってもよいでしょう。そこのところを作者は伏線にて示しています。「体毛をカミソリですべて剃られ、つるつるの肌に猫の毛を一本一本、植えつけられる」「節子は猫缶を夫に要求した」「夢中で食べる猫をなでながら、にこやかに見守った」などなど。シュールな作品を書くのは難しいです。というのは、シュールな作品は読者に理解してもらえないため、作者はどうしてもリアリズム的な表現の仕方を取り入れてしまうからです。そうしてしまうと、今度はシュールな世界が、ややシュールでなくなってしまいます。読者に理解してもらうという前提を外して、一度、純粋にシュールな作品を書かれてみてはいかがでしょうか
この作品は文学エッセーです。つまり、評論的なものとエッセーをつなぎ合わせたものです。評論的なところでも、文藝学校の冨田さんとか、新日本文学会の宮中さんとか、こういった人たちを取り上げた視線にあるのはエッセー的な感覚からのもので、ややエッセー部分の多い作品だと思います。評論のところでは、『夢十夜』と『こころ』の関連を書いています。「夢三夜」で、子を背負ってきたけれど、森のとば口の石碑のあるところで子が云うには、ここでお前は百年前に己れを殺したのだと。上に述べた《愛猫》の場合と同様に、「子=魂」なのかもしれません。というか、そのように坂本は理解し、この作品を書きました。「K=先生=私」は、その流れからいうと自然な類推だと思っています。夏目漱石の実人生に置き換えれば、漱石は最初「K」であったものが、青年期において「先生」、その後の近未来的に「私」だったのではないか、そして晩年、漱石の心にあったのは、捨ててしまった「K」への望郷の思いだったのではないかと、私は考えています。
かなり難しい作品です。一般的に難しいのではなく、作者にとって難しいところを精一杯書かれたということで、難しい作品だと思ったのです。その意味で、まずは成功している作品でしょう。この作品の主要なテーマは、「僕と有子」で、子供がいない夫婦が核にある短編小説なのです。子のない夫婦の描写は、そもそも作者は体験がないために困難な作業のはずですが、それなりに表現できていて、これは作者の筆力のたまものだと感心したしだいです。とは言え、やはり難しいですよね。そのために、街歩きにかなりの分量をとってしまい、肝腎な部分の表現の方が少なくなっているように感じました。「逢魔が時」の僕の心理描写、あるいは、公園にいた森田綾子ちゃんの描写など、もう少し表現されると作品が締まってきます。その後で、「明るい子だよね」「ああ、明るい子だったね」と夫婦の会話を置くと、この作品は活きてきます。体験のないことは難しいのに、作者は想像力を頼りにここまで書けるのですから、すごいです。
この作品に書かれている田舎は、紛れもなく現代の田舎で、現在という時間の上に存在しています。ですから、40年も前の田舎でもなければ、20年後の田舎でもありません。そのことが重要であるでしょう。というのは、現在という時代の社会の有り様を「田舎」からの視点で、しかも田舎にずっといた住人ではない視点で捉えているからです。社会の問題、そこにいる人間の取る行動、考え方、さまざまな観点をあますことなく、作者は作品に取り込もうとしています。田舎の人間、都会の人間と裁断できないのが現代で、今回の澤田さんの娘と息子など、そのよい例でしょう。田舎生まれながら、都会で暮らしている、すると都会人となるのですが、本人にとっては自分がどこに所属しているのか、おそらくわからないでしょう。章題となっている「『わかくさの庭』の周りで」など、そこのところを意義深く読者に訴えています。岡田太郎夫妻、『リンドウまつり』など、田舎の祝宴・カーニバルがこれから始まる予感がして、興味津々です。
今回の「明治文壇の群像」は田山花袋を中心にして、「サラリーマン花袋、その二」「サラリーマン花袋、その三」「サラリーマン花袋の家庭生活」「自信のついた花袋、正宗白鳥と対決」の4項からなる章の構成です。全体としては、サラリーマンになり安定した収入を得るようになった花袋が、編集者をやりながら執筆による稿料を稼げるようになっていく顛末ですが、いわば、明治後半の出版界の隆盛ぶりを現わしています。大正時代になるとミリオンセラーが続出するようになり、その前触れの時代でしょう。それにしても、明治三十年に書かれた花袋の『春の日光』と、明治四十一年に書かれた『妻』とでは、およそ十年という開きがあるものの、その文体においてあまりの進捗に驚きます。田山花袋についてよく言われるのは、自然主義文学、私小説といった文学思潮ですが、なかなか的確には現代においても捉えられないでしょう。西洋文学流に言えば、夏目漱石も田山花袋も同じ自然主義文学の範疇なのですが、日本文学においての両者はどうやら別物なのです。