2016年2月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:2月21日(日)
  • 例会出席者:14名

雑記 8

おもしろい試みです。それにしてもネットに掲載されている土着信仰の怪談話の、その文体をネイティブ秋田弁に翻訳して、しかも「ひらがな」表記にすると、作者が目論んだ以上の不思議な効果が出るものだと感心させられました。着眼点がよいです。文字を輸入した古代においては、文章に多層な意味を膨らませるまでにはいたらず、古墳から出土した鉄剣の銘文のように、血縁とか地位、地名など名詞の羅列の連なりでありました。もちろん漢字によってです。それを作者はひらがなにして、ひらがな自体は新しい文化なのですが、表音文字であるために意味からは遠ざかり、漢字よりも古い神話的な趣をこの翻訳文にて醸し出しています。よく読むと意味の膨らみなどもこの文章にはあり、そういったギクシャクすらおもしろいのです。「じえ」のことが書かれています。「じえ」って地穢(?)なのでしょうか。地霊みたいなのものだと考えました。

春日の森から

趣のある随筆・エッセーです。『奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は哀しき』の和歌に尽きる作品だと思われました。作者が母と一緒に奈良の春日大社を訪ねた、その時に奥山から鹿の鳴き声を耳にしたのだけれど、その声の異様さを心に抱きとめ、折々に奈良を訪れるようになり、『奥山に紅葉踏み分け……』の和歌に自己の内面がぴったり一致することに感動されたのでしょう。つまり「鹿の鳴き声」が先で、和歌を知ったのはその後のことのように思われます。時空を切り裂くような異次元の鳴き声は、今ここに自分の存在することが、自分のことながら驚かされる一声であるのです。その鹿の一声を歴史と自己認識に聴ける能力は限られたもので、聴くことのできた作者の感性・情感の豊かさを想像いたします。母と娘の四十年の歩みの記念碑であります。(春日大社には七六八年(藤原永手)と七一〇年(藤原不比等)の二つの説があるようです?)

心が仕事を休むとき

奇妙奇天烈な作品です。かなり複雑な構造を持った作品でしょう。挑戦するかのように両巨頭である安部公房と花田清輝を引用、幻想のドアを開ける形で作品を書き起こしています。「寝ていたのは一階だったのに二階から階段で降りているように感じた」の表現はシュールで、この作品全体の気分となっています。幻影が新たな幻影によって塗り替えられ、それら一連の幻影とは別の現実があることを感じさせられるのですが、そのことを読者がわかるのはP235、「職場に復帰して三か月」まで待たなければなりません。妻との事、病気の事、職場での仕事の事、様々な現実との葛藤があり、小説のリアリズムが展開されます。現実と幻想、その両者のスタイルが一つの小説の中に混在することは、ある種の挑戦でしょう。かなり難しい作業です。なお、冒頭の安部公房と花田清輝は何だったのか、作品でまだ決着がついていないのは残念。力作なのは確かなのですけれど…

トモダチ

作者は作品を書くごとに上達していると感じています。題材、内容、展開、ストーリーに腐心するのではなく、作者は自分のテーマを表現するためにいかなる文体や方法で書いたらよいのか、深く考えているのです。今回はそれが、「人称を表示しない文体」として現われています。主人公である視点人物のモノローグ的作品なのですが、この視点人物は見たもの、見えたものの少し奥にいて、その主観は隠れたままです。ですから、主観的でありながら客観のモノローグなのです。すべてがカメラのレンズを透した描写から成っています。たいへん凝った手法でしょう。直載に言えば主人公の傷つきたくない自己防衛からくるものかもしれませんが、そのことを文体で表現することはとても有効な表現だと思います。兼坂を見る、その兼坂も「ボク」を見ているのです。その一瞬に「トモダチ」であることが刻まれ記憶となります。かなり高度な手法・文学理論ですね。

幸せの設計

安心して読める作品というのはありがたいです。しかも作者は読者を楽しませてくれる仕掛けをふんだんに盛り込んでくれています。姉の真理子は一流大学の医学部に合格するほどの秀才であり、それに比較して、頭はそれほどではないが妹の沙紀は美人であるとの設定です。美貌と頭脳でどちらが幸せにとって重要か、秤にかけられるのです。医者になりアメリカに行った姉は離婚します。この時点で妹に幸せ競争の勝利が微笑みかけますが、沙紀は沙紀で、年の差婚問題でひと悶着があり、姉妹の幸せ競争は互いに座礁してしまいます。その後、沙紀が社内見合い的な成り行きで結婚することによって、ひとまず沙紀に幸せ競争が微笑むのですが……。夫の単身赴任、優秀な子供の教育問題、どこかで経験したようなことが自分の身に振りかかり、沙紀の血の騒ぐ未来がこの先に待ち構えている予感。といった具合に作品は終わりますが、…なんとも幸せは浮気者です。

大福餅を買う男

ちょっとした人生を描いた作品で、この小説は「紗江子の場合は」といったような一品でしょう。スーパーマーケットという仕掛けの上に、紗江子と河合はいて、そこに権田三郎が現われることによって「小説」が立ってきます。紗江子は何の理由も原因もわからず夫に逃げられてしまったのですが、権田は女房に男をつくられ、逃げられたとの設定。結末として、理由のある逃亡はその理由がなくなってしまえば元の鞘におさまるけれど、理由のない逃亡は納まりようがなく、紗江子の「女」が浮きたっておわる、そんな片恋短編に仕上げています。作品を権田の側からみれば、紗江子のレジを選んで大福を買うわけですから、紗江子になんらかの好意を持っていたことは確かです。大福餅が、いつしか紗江子に変化したのでしょう。「さみしさと切なさ」の大福だったものが、毎日会う紗江子に心が慰められるようになったのです。しかし、日常の扉は都合よくは開きません。

こけつまろびつ、さて今日も

日常を回想風に書くと随筆になりますが、そうではなく、得体の知れない現実の向こうからやってくるあれこれに対して悪戦苦闘する、偶然が支配する日々の記録は、自ずと「私」の小説となり得ます。作者の視点は、時には良き母、時には破天荒な女性、と様々で、とても楽しませてくれます。今回は空き巣とオオスズメバチの災難です。両方とも息子夫婦の顛末で、良き母の気配りみたいなものに溢れています。空き巣に関しては、空き巣にとってはグーグルマップという便利なツールがあり、防御する市民にとっては多種多様な防犯グッズと、時代の進歩(?)をさり気なく皮肉っているでしょう。オオスズメバチに関しては、一にも二にも、病院にての治療が大切なのだと、この作品にて知りました。アナフィラキシーショックを起こさないために。厄除けのための神社での「家内安全」祈願。私は神様を信じていませんが、確かにいてくれるとありがたいものです。