毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
同人誌交換をしている『篭子』の森田茂治さんから、『篭子』26が送られてきて、新年の挨拶の文面に、『さくさく』で最初に読むのはSKさんの「映画日記」です、とありました。映画人にとってとても参考になるらしいのです。目録、記録というものの有効性を改めて実感しました。よかれあしかれ、歴史の一コマであるのでしょう。毎回、少しずつ書き方を工夫されているのも、なんとなくわかって好感されます。『妻への家路』(中国 チャン=イーモウ)に★印三つでしたが、知人の映画評論を読んだら、文化大革命を題材に用いながら、もっと深い、中国の「大公無私」とリアリズムの葛藤をテーマにしている作品なのだということでした。難しいことはさておいて、目の前にいる、不在と化した妻への家路は情感豊かで、観ていなくても観た気持にさせてくれます。
「スキーことはじめ」「三浦雄一郎さんとの出会い」「すぐに手を出す落とし穴」の三部構成による随筆です。特に「スキーことはじめ」の『雪はこんこ』の蘊蓄には、合評会に出席した方々の興味を集めました。皆さん、やはり「雪はこんこん、霰はこんこん」と歌っていたそうです。「こんこん」だと、大地から泉がこんこんと湧きだす様を空に転写、空からこんこんと雪が降ってくる情感を味わえます。「こんこ」だと「此処に降れ」で、前向きな雪を待望する歌となります。名歌というのはすごいですね。正しくても、言葉が変じて俗唄となっても、どちらでも素晴らしいのですから……。貧乏山を貧乏山でなくさせる企業人の営みには感心しました。「たとえ人の手を借りてでも己の描いた夢が実現した感激に胸があふれ、目の前のパノラマが涙でかすんだ」には、拍手です。
おそらくこの作品は小説なのに、随筆のコーナーに入っていて、不思議な感じがしました。視点人物に「緒方」をとって、つまり作者が緒方さんを通して表現することにためらいがあったからなのでしょう。それだけ「緒方さんの恋」は微妙なものを含んでいます。緒方さんはAさんに初恋をしました。ところがAさんは結婚してしまい、緒方さんの心の中では「Aさんからお兄ちゃん」になり、初恋は冬眠するのです。後に緒方さんが結婚する際に、結婚相手をAさんに引き合わせた場面など、小説ならば最高に盛り上がる場面になると思います。夫を愛し良き家庭を築き、なおかつ、Aさんを終生愛し続ける女心とは何か…。男としては怖い話ですけれど、読んでみたいです。小説を書くに当たって他者の人生を一人称で書くことに、注意さえ払えば、何の問題もないのです。
「た」止めと「る」止めの文体を駆使し、ある世界を表現した作品だと感じました。「た」止めで客観を表現し、「る」止めでは些細な行動を表現するも、そこに主体は立ち上がることはありません。よってこの作品には本質も必然も存在しないのですけれど、このことによって、「無」みたいなものが表現されることになります。なんとなくアンチロマン文学を想起しましたが、さて、どうなのでしょうか。だとすると、難しい作品ですね。作者のこれまで掲載した作品の中で、この作品が一番文学的だと感じました。どこかの文学賞に応募されたのでしょうか。反応がなかったとすれば、下読みの方がこの「不思議な世界」を読み取れなかったからでしょう。文学的であること、それとともに小説的であること、この両面を追及されるときっとよい結果が出ます。
ひとつの時代を幻想的に描く作品はおもしろいです。1968年5月、パリの五月革命闘争、カルチェラタンはある年代の方達には悲喜こもごもの思い出があります。日本でも同時期に「お茶の水カルチェラタン」がありました。「砂浜?」/「……の上にあるパリだ」は、直ちに砂上の楼閣をイメージさせて、この作品の持つ奥域を深いものにしています。ローランはレモンを求め23年前のパリの現実・幻想(名のない単に女性)と出会うのですが、このことによって、プラージュの意味がある種の虚無的様相を呈してきます。そして、美しい言葉だけが記憶されるでしょう。レモン、青空、風、石、車、木陰、血、等々。「夏の光のなか/レモンの花咲く」を彷彿とさせられました。ノエラが言うようにローランは革命家なのではなく詩人で、つまり作者は極めて詩的なのです。
おもしろい作品です。目の前に不愉快な男の姿が見え、それは至る所に見えるのですが、うすうす幻視と自覚しつつも、男を見えてはならないものとして僕は思考処理して、現在の生活を必死で守ろうとするのです。解決策すらも作中に提示されながら、破滅から僕は逃れられません。心療内科の医師の対応は的確で、おそらくこれ以上の処方箋はないものと思われますが、理解しつつも軌道修正できない、問題の深刻さがリアルに存在しています。1ミリたりと誤謬があってはならず、その道から一旦外れてしまうと人生の破滅となってしまうと恐れる自己。そのリアルな恐怖が男を出現させるのです。巻末に書かれているホームレスの幸せそうな夫婦、その夫婦よりも幸せだったはずの僕が不幸だと苛まれる、その距離と時間の錯誤は、現代人ならではの不幸でありましょう。
今回の章は、とても思惟的に経済を語っているでしょう。栗田嘉記氏は小さな国の指導者で、国民皆で豊かになろうと、旗を振って頑張る救世主のような存在に見えました。これを大きくすると、例えば、田中角栄かもしれません。豊かな人はもちろん、貧しい人も共に手をつないで豊かになろうというのです。顔の見える相場師の時代はよかったですね。また、栗田氏とは一風変わった寺町博氏も、意図せずして、一般の投資家を潤した相場師の貴重な一人であったでしょう。良き時代の終末を『その後の「ハーフ・ムーン」』で締めくくっていますが、夏子さん、この後の変遷激しい時世をどう生きていったのか、案じられながらの〈その四〉でした。奇しくも正月以来の株価の暴落、この後、本格的なクラッシュとなるのか、それとも反転するのか、祈るほかありません。
仰々しいタイトルなのがおもしろいです。仰々しいだけに、思い切った書き方をしています。「私が愛知優子と出会ったのは…」と書き出され、追々、私と優子が同一人物であることは、読者にわかるように書きすすめられます。その私が虫垂炎のところでは「自分」と表記され、自分は愛知優子と重なります。重なった「自分」と「愛知優子」は、なおも「わたし」となることに注目です。その後、再び、私と愛知優子とに分離してしまい、二人三脚が反復されます。電車の中、ホームで愛知優子の容態が悪くなり、「私」は自己矛盾の洞察に陥るのですが、「私は、私という存在は、『病気』なのではなかろうか」というシュールな発想をいたします。ラストにて、「私」「自分」「優子」のキャストが全員登場、しかも一者の「こころ」として登場し、ハッピーエンドで結ばれます。