2015年12月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:12月20日(日)
  • 例会出席者:19名

読書雑記 32

今回のこのコーナーは、「読書の入口」と章題をつけてのメッセージです。実は私は、どのようなことが書かれているのか合評会を終わってから気づいた次第で、とりあえずなるほど、と感じました。読書に関しての『第2図書係補佐』を紹介して、『火花』の作者の手の内を「筋のいい読み手が批評的に書いた」と分析しているのですね。『第2図書係補佐』が又吉直樹の小説の感想本であることを知らなかった私は、それと『火花』がどう関連するのか理解できなかったのです。『火花』に関する賛否は様々なようです。よかったとする会員が三、わるかったとする会員が七、といった割合でしょうか。もっとも、わるかったとする七の内には、読んでいない方も含まれています。これだけ話題になっているので、読んで損はないのでしょう。又吉直樹からは自然体の作家を感じます。

チャイルド/級数/誕生

「チャイルド」は子と親の相克を裡に含んだ愛を表現しています。「子供は意味の/親は子供を」の対、「子は親を愛し/子は親を愛し」、この二つの「対」をリアルなものとして表現しながら、他の部分では混沌を模索して「命」に昇華しているのです。「級数」は数学のリアルを土台にした抽象的な詩でしょう。「新宇宙の扉の鍵の宇宙的な」と表現するとき、そこに反復を感じます。「鍵」とは、「新しい世界の移動性の極差」の「極差」と相対しているように思います。いわば、希望を抱かせる運動が伺えるのです。「誕生」は、「の」の言語空間に出現する「光に満ちたる/命」を歌った詩でしょう。命は奇跡でもあるのです。「チャイルド」「級数」「誕生」は、作者の新境地です。言葉が複数集まると、その言葉の「穴」に気付きます。その穴に目を向けた詩に感じました。

アメリカ日記 二

乾いた感じのユーモアの散りばめられている小品集です。「シスコのお巡りさん」では、ルールとは別の自由のあるアメリカが描写されています。15年前とは、9.11の前のことなのでしょう。「シングルズバー」では、女優のようなすごい美人と娼婦が驚きとなっています。「バス停」は格好のシチュエーションですね。しかも、「白人のおじいさん」の物乞いはアメリカの憂鬱でもあるでしょう。「ベテラン」は、プロと素人の対比ですが、悲劇でもあります。「ホームレス」はけしからん話ではありますが、アメリカの健康さでもあるでしょう。「おごられる」も同様に、アメリカの精神を物語っています。「今日も晴れ、でも丘の向こうには霧が」は、示唆に富む一項です。情感を求むけれど、乾いた関係を打開する手立ても術もないまま、アメリカ暮らしは「晴れ」のままなのです。

おもしろい趣向の作品です。死んでしまっている僕のことながら、なぜか死というもののリアル感はなく、大学院生の置かれている現実の情況が「死んだようだ」と書かれているように感じました。生きもせず、死にもせず、それが永遠の死のようだと書かれているのです。それにしても、タイトルの「崖」とは何でしょうか。後のない、飛び込むしかない場所の象徴なのでしょうか。いずれにしても、ここのところがおもしろいのです。曖昧ゆえに、「思考をやめて、早く死んでしまいたい」とも書けるし、「僕はタイムカプセルに閉じこもっている」とも描写できるのですから…。この作品のキーワードは「タイムカプセル」かもしれません。作品的には死が包まれているのですけれど、掲載の一作目、次の創作の様々な種子が貯蔵されているのではないかと期待が膨らみます。

ぼくは天の川の距離を知っている

とてもよく出来た「天の川」にまつわるフィクションだと思いました。児童文学、あるいは何らかのファンタジーの文学賞に応募すると、かなり手応えのある結果になるのではないでしょうか。ただし後半の運びが、あまりに身近にハッピーエンド過ぎると感じました。作中で「手おくれ」とされたショウも手おくれというわけではなく、サルはいつの間にか明生の分身になり、助かる見込みのラブは、現実に戻っても遠くへと去ってしまいます。チビどもは、現実世界においては未生で、明生が戻ってから誕生するのですが、このままだと「天の川」のイメージが何なのか宙に浮いて残されてしまいます。「天の川と現実」との関係を本質において押さえつつ、他世界的に描けるとよいと思いました。それにしてもうまいですし、なんといっても良質な作品であるでしょう。

晩夏

言葉ってとても美しいものだと、この作品のタイトル「晩夏」に触れて感じました。朝・昼・晩の一日を、春夏秋冬の夏に延長させて、秋の気配を感じさせる夏を「晩夏」と微妙に名付けての作品です。この微妙さは、母と娘の関係にも充分に及んでいます。冒頭の四行の、駅に母を迎えに行く娘と、娘に会いに駅に到着する母、みごとに母と娘を相対させながら、なおかつ二人を互いにさ迷わせる四行となっているのです。母の婚約者との別れ、娘の結婚と離婚、その後の来歴を回想しながらの、無事に会えることのできた母娘でした。晩夏を通しての母娘の新たな関係に再会する、いわば昇華させた作品でしょう。ある種、事実に添った作品のようですが、事実を作品に添わせながらも創作の工夫を加えるとよいかもしれません。文章描写には確かさを感じさせます。

黒いランドセル

この作品を作者が書いたということが、おもしろいです。合評会で、「ストーリーテラーだなと感じた」「これは宇宙だな」といった意見が出されました。なるほどなのです。冒頭の一行、「ずるい男ね」とあります。これは京子の言葉ですが、多分に作者の言葉であるでしょう。もしかすると京子や作者とも少しずれたところの女の言葉かもしれません。こういった書き方、表現を作者は獲得し実践している渦中に現在いるのであって、そのことがまざまざと窺えて、おもしろいのです。作者のよき読者からのアドバイス、「あなたの作品には悪人がいない」に応えての悪人、父親の登場なのだと思います。よい読者を持ち、それに応える姿勢には好感します。悪人をそこに認めると、確かに宇宙的にもなるでしょう。お陰で京子の弟の潔さんにはワリをくわせてしまつていますが…。

ぼくたちの、ひみつきち 七

山口健太の章の完結篇ということで、「あとさきが見え」とても読みやすくなっている項だと思いました。「四年の夏」「五年の夏」と、子供にしては多量の時間にまたがっての貴重な章になっています。作中に何度か登場する「金色の蝶」がキーワードでしょう。心と心の交流が巧みに構成されていて、その瞬間は見過ごしてしまうのですが、読後感の中に、その瞬間に介在する金色の蝶を感じることができます。それにしても東京の子供の多感ぶりには、いつもながら驚きます。田舎だと、例えそのような感情を持ったとしても、言葉や行動にならず、いつしか忘れられてしまうものですが、東京と田舎、うらやましいようなお話です。(登場者関係図が冒頭にあるとよいかも…)