毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
今回合評会で、作者はたくさんの映画を観ていてすごいといったようなことを話していましたら、興味深い意見が披露されました。映画は一見下火に思われているけれど、実は、年を追うごとに興行収入は増加しているのだ、そうです。映画がどのような状況にあるのか考えてみました。大きな映画館での上映。近代的設備の導入。企業としての映画制作。極めて個人的な自主制作映画と上映に関する運動。また、ネットを通じた配信も興行の一部としてカウントされているのでしょう。様々な形態による興行を計算すると、今現在、映画は静かなブーム期にあるということになるのかもしれません。このところ、「映画日記」に掲載されている作品が小粒になった感じがしていましたが、それは多様な観たい人に観たい映画を提供する、肌理の細かさによるものなのかもしれません。
路上にてのティッシュはよく貰います。作中のお婆さんではありませんが、「私にもちょうだい」の口です。配る方でも工夫をしますが、貰う方でも工夫をします。数メートル先から、貰いやすいコースを見極め、その線上を行くのです。とは言っても、作者の「ティッシュ配り」は単なるティッシュ配りではありません。就職差別を撤廃するための社会運動です。わずかな時間における作業ですが、そのことを意識する作者の心の動きがよく伝わってきました。ティッシュ配りの手際の工夫、ところが、配り切ればそれでよいのではなく、その手渡した相手との間に、就職差別をなくそうとの心のつながりを持てなければ、作者のティッシュ配りの意義はなくなってしまうのですから。作者の持つ社会意識に好感しました。手から手へ、ハートからハートへ、きっと伝わります。
堂々とした歴史小説です。綿密な資料を元にしながら、歌人として高名な大伴家持を「武門」と位置付けての展開は、いかにも読者を惹きつけて見事です。そもそも大友一族が武門であるのは、先の大友金村(?)が継体天皇の即位のとき越前から随行したためであり、近衛兵的存在だったと、合評会で意見が出されました。なるほどと納得しました。坂上田村麻呂も大友氏の一党だということは、まさに目からウロコの思いがしました。歴史通の方だと、この作品を挟んで喧々諤々と論戦を闘わせたいところなのではないでしょうか。一つだけ不満に感じたのは、会話の部分が、後の武士の世になった時代の武将言葉になっている点です。当時の貴族である武人がどのような言葉づかいをしていたのか、やっぱり貴族言葉だったのではないかと思えるのですが…。
作者はこれまでもSF小説を書いてきましたが、今回の作品は一風変わった趣になっています。単にSF世界を追及するのではなく、内面世界のSFに挑戦した作品です。加えて、女性視点を取り入れたことより、描写に厚みがでて、作品のリアリティに成功していると思いました。AIHである「小野純子」に人格権があるかどうかの裁判ですが、展開にひねりがあり、この裁判をおこすにあたってのAIH「小野純子」のスポンサーが、なんと、人間である小野純子だったというどんでんがえしは面白い結末です。目の前に迫っているロボット時代の本質問題が書かれています。現実において人間が、人間以外に人権らしきものを与えたのは「法人」ですが、さてロボットに対してどのような対応をするのか、どんな社会となっていくのでしょう。 [タイサンボク←→木蓮]
揺籃期とは、幼稚園から小学校の三年生くらいの期間のことだと思いました。ハルとフルフル、揺籃期にピリウドを打つことになる「その人」の三人が登場する作品です。時間を言葉の文章で進めるのではなく、文体で進めていて、見事です。やわらかい「た」止めの文章・文体の効果だと思いました。ある文章が「た」で終わり、そこに「間」ができ、間の次に揺りかごの揺り戻しのごとき出来事が生まれるのです。それは揺籃期のユートピアの世界です。内気なハルは親友ともいえるフルフルと共に内世界をつくりますが、やがて出会った「その人」はハルを外の世界に連れ出すでしょう。フルフルは夢の世界の夢として消えてしまうのですが、「絵に男を付け加えた」はフルフルからのハルへの贈物なのではないかと思いました。幻想のフルフルからのリアルな運命。
とても初々しい感じがしました。小説の書き方にはいろいろありますが、作者がこんなに用心深く作品に導入していく様は珍しいと思ったからです。久しぶりに小説に挑戦する気負い、うまく書けるだろうか、だいじょうぶだろうか、そうした思いで一文一文を書き進め、「草笛コンサート」にまで辿り着くのです。この「草笛コンサート」は、なぜか「金目鯛」とオーバーラップして感じられました。「金目鯛」は作者の初期の作品です。ここまで辿り着けたのは反復された〈散歩〉のお陰ですが、この散歩の紆余曲折は作者の作品を書こうとする戸惑いでもあるようで、この作品を書いたということは、まことにおめでたいことだと祝福したいです。草笛コンサートの他者の男女、父の思い出、川の辺、これら文学的象徴に作者は帰ってきました。
今回の章は、田山花袋の結婚の章で、とにかくおめでたいと気を許して楽しめる作品になっています。田山花袋を私は「たやまかたい」と、なぜか音読み的に記憶していましたが、今回初めて「花袋」なんだと気付き、なるほど「花の袋」、花をいっぱい持っている詩人風な名前なのだと感じることができました。これまでの作中に何度か出てきましたが、花袋は「詩人になる」と公言していました。その志の通りにペンネームをつけていることに、改めて感心しました。明治の文学観において、詩人こそが文学者なのだとの共通認識があったのでしょう。夏目漱石の「文学論」にも、文学とは詩である、と書かれています。花袋とりさの結婚の媒酌人が柳田国男だというのは、幸運なことだと思いました。なにしろ明治文壇において、後ろ楯なしに世に出た作家はいないのですから。
なぜか小説が急にうまくなったと感じさせる作品です。三人称ですけれど、その三人称で書く一人称視点の作品で、これまでの女視点ではなく「男視点」で書いたことにより視点の客観性がほどよく表現されたのではないでしょうか。とにかく面白い作品です。行間を読ませる小説が良い小説なのだと言われていますが、ストンとそのことをやってのけている作品です。余計なことは書かず、ポンポンと展開され、そのあっけらかんとした様が妙に現実的でもあれば非現実的でもあります。また、その現実とも非現実とも拘らないところがよいのです。章題の「仮住民」はいかにも現代の問題で、5年後、10年後には、さらに深刻な「国」の問題として浮上してくるでしょう。作者は目ざとくそれを掴んでの今回の作品です。田舎を喪失してしまう国は滅びます。