2015年9月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:9月20日(日)
  • 例会出席者:12名

現行犯逮捕

自分の勤めたサラリーマン生活を振り返りつつ、現代の若者たちに「頑張れよ」とエールを送った作品なのかなと思いました。また、このまま企業小説・あるいは経済小説にすぐにでも変換できる内容、構えのある随筆でしょう。会社ゴロという存在は、どうも日本の企業にとっては根のある問題で、これをやっとの思いで断ち切れたのは、おそらく作者の時代の頑張りがあったからでしょう。若者たちは、本当は「ごくろうさま」と労いの言葉を発しなければいけないくらいです。総務部、会社ゴロときて、それを取り締まる刑事・はいばらさん。このはいばらさんの描写が見事です。目も鼻も口も大きい姿かたちを、ひらがな表記で「はいばらさん」とすることで、目と鼻と口が、それぞれ独立しているように連想させるのです。私は神話の人物、猿田彦を想起しました。

小蟹の浮かぶ玉砂利

作者の感想、実作のためのアラカルトを読んでなるほどと思いました。前回の「よなぬかの添え花」と、今回の「小蟹の浮かぶ玉砂利」を合わせて、『ゆきのまち幻想文学賞』に応募されるとのことです。さて、どんな作品に仕上がるのか楽しみです。予想としては、作品・資料中で作者はやけに集落墓に肩入れしているように感じましたので、土葬の雰囲気を有効と判断して、Mの集落墓地かなと推量するところです。[風速:強し]となっている点も、風の音と幽霊の声が雪に掻き消される筋立てが自然と浮かび、もしかしたら小蟹の登場もあったりして、怨念なのか未練なのか、幻想の世界にぴったりだと感じました。民営墓地だと現代の世相を伺わせる「墓じまい」で、幽霊も現代的になるでしょう。作品を書くにあたって、こんなに熟慮し研究されるのですね。感心です

初冬の空

「初冬の空」の冒頭の二首は選挙に際しての歌です。一般的に政治のことは歌になりにくいと思っていましたが、作者が歌に詠むと、生き生きとしてくるのが不思議です。普通選挙のもと、作者が若い頃に初めて得た婦人参政権の喜び、少しでも世の中がよくなればとの思いが、今も手にした一票には籠められているのです。「鳥の目を逃るる南天の一房が初冬の空に朱くかがやく」に詠みこまれている、美と情と意の成す言葉の業には教えられます。また、「年賀の客」の一首目、「目白きてすずめ鵯つどひくる糯の古木へ年賀の賓客」は一転、楽しみの歌です。人は、独りでは楽しむことができず、他者にしろ、自然や風景、動物などとの交歓があって初めて楽しむことができます。正月の庭の糯の古木に集い来た、目白、すずめ、鵯に参加して、吾も楽しむのです。

老相場師 その三

株式取引から、商品取引の小豆相場取引、そして今回は商品取引の一つでもある繭相場へと、利鞘を求めて投資の舞台が目覚ましくかわります。投資はギャンブルではない、を実証するかのごとくの作者の綿密な投資手法には並々ならぬものがあります。数学の微分のような利鞘の文面ばかりでは読者も疲れるだろうと察したのか、投資が主体でありながらも、今回は「夏子」さんを登場させての「憩いの章」のように構成されています。夏子さんに思いを寄せる三人の男として、会社の社長、某省の事務次官、デパートの係長が登場しますが、「私」である四番目の男をスルーしてしまっているのは、書かずともなんとなく読み取れます。「夜咲く花はうその花」ではありませんが、夏子さんの魅惑的な姿が目に浮かぶようです。作者のサービスの章として、楽しみました。

イスカンダルの宝

マンネリ、あるいは限界を脱皮するためには、一度は通らなければ関門を、早くも作者はこの作品にて突破したのではないかと思わせる一作です。悪女を書くことに挑戦しています。トリカブトの精のような鬼女として。「盗んででも金をもってこい」とは、すさまじい執念ですし、友人鉄男からでさえ金を巻き上げようとするのですからすごいです。ただし悪事は成功することなく、誠の死出の旅のギリギリのところで助かるような場面でエンドとなっています。この作品が見事なのは、悪女を書いたことがメインだとしても、そのことによって鉄男や誠、それに糸子おばさんという人物像の輪郭線をくっきり描けたことではないでしょうか。「宇宙戦艦ヤマト」や「コスモクリーナー」は、思い切った作品を書くための単なる仕掛だったのです。悪女を書くコツを掴んだのでは…

パイプに関する夢

言葉には、言葉の約束がありますが、この作品はその約束事を解き放っているという点で、カフカの「掟」のような小説だと感じました。「この通りの住人の多くは、朝起きると、パイプの下を歩き、パイプの終着点、水道工場に勤める」と書かれてありますが、この文章の「水道工場」から水道を取り除いて、単に「工場」とすると、まさにカフカになります。「掟」には、門と門番と男が登場するだけです。掟は抽象概念として、「ある」だけなのです。この作品でも、パイプは「ある」だけなのですが、「掟」と異なるのは、具象的存在物としてあるのです。私はこれを肉体もしくは命なのではないかと想像してみました。400メートル走でバイブが欠損し、洋子は倒れてしまいますが、これは命の事故の現われです。作者は、なんとく発想した作品です、と言っていましたが……。

野菜の国の王子様

奇抜な作品です。「野菜は動物に食べられるために生きている!」のフレーズが、作品全体に貫かれており、生育から人間の食卓に上るまでの王子様の心模様が描かれています。王様にしても、末尾に至り王子様にしても、自由に生きる、自分たちのために生きる、という思いが内面から湧きおこってきますが、「動物に食べられるために……」という宿命のごときものを超えられません。児童文学に哲学問答を組みこんだこの作品は、答えの出ない永遠の難問でしょう。個々の表現は美しいです。なんと言っても王子様の世界中に届く「声」というのはすばらしいです。読者はどのような声なのだろうかと想像します。個々人によって様々でしょうが、「命の声」であることは確かです。命の精の声だから、心の隅々まで澄みわたるのです。作者にとって大事な作品になりそうです。

海になる滴

作風が変わったという印象を受ける作品です。これまで、三人称で書く一人称視点の作風だったのが、行間の隅々に一人称の視点がしっかりと窺えます。それなのに、そのことを和らげるために作者は登場人物を沢山出して、そこにある智江の「私」を弱めてしまっているのです。思い切って、智江と平島、亡くなった恭子の三人で展開させてみたらいかがでしょうか。タイトルの「海になる滴」はそのためにある表題のように感じました。この小説は作者にとって「愛のかたち」を表現するための格好の作品だと思います。ぜひ大事にして、何度も手を入れ完成させることを願っています。いくつかの章を設け、150~200枚くらいの作品にできるといいですね。
それにしてもマガンの野鳥観察の場面はとても感動的でした。