2015年8月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:8月16日(日)
  • 例会出席者:6名

雑記 7

怖い話です。居眠りしてしまいそうな車の運転はよくあること、と言えばそうなのですが、「さくさく」の合評会のあった16日、二次会を終えて池袋を後にしたのは9時頃でした。なんとその池袋で午後9時半頃に、居眠り運転の車が歩行者の列に突っ込み死者まで出たそうです。「叔母よりクレームがくる」ということは、よほど危なっかしい運転だったのでは……。こんな時は、バスかタクシーが無難ですね。もう一つのお話は、ブックオフで本を三冊買ったのはよいけれど、家に帰って見てみると同じ本が二冊あり、つまり一冊分の代金を損してしまったという顛末です。以前に買った本をまた買ってしまうといった失敗はよくありますが、その日に間違えて買うというのはめずらしいことです。とりあえず、命のこともありますから、車にだけは気をつけましょう。

アメリカ日記(一)

最初にしては手慣れた作品で、アメリカの乾いた空気感みたいなものがよく表現している作品だと思いました。特に「リンゴとねずみ」は秀作です。誰も食べないリンゴをねずみが発見し食べます。そのことによりねずみは増えるのですが、増えたねずみは人間の敵、駆除されてしまいます。すると以前のような、誰も食べない青いリンゴが毎年実をつけ、ただ地面に落ちる季節が繰り返されるのです。このことから、アメリカの不法移民のことを考えさせられました。ちょっと変形して原稿用紙10枚くらいの小説にすると、名作になる気がします。「夜の101」「花屋さん」はジャパンシックの作品ですね。作者の心情が表されて好感します。子供のころ、アメリカ人はみんな英語を話し外車に乗っていることにビックリしましたが、人類とは何か、奥が深いものです。

釜占い

この作品は「江戸時代の怪談を現代に翻訳した短編集」にある「釜占い」に擬えた二次作品なのか、その「釜占い」がどういうものかわからないので、よくは判断ができませんでした。赤江建造と白田会長をコインの裏表の人物に描いています。ということは、実はこの二人、同じ類いの人間であるというところが、この作品の怖いところではないでしょうか。白田会長と赤江建造の違いは、白田が組織の長であるということだけで、自分本位という点では同列だといってもよいでしょう。空気を読まない人間と、いじめのグループと捉えるとわかりやすくなります。さて、作者の目論見は何だったのでしょう。救いようのない人物を対極させた場合、どうしても読者の心情の落とし所がなくなってしまいます。もしかしたら、もう少し長さが必要だったのかもしれません。

昨日の民話 (一)

言葉のやわらかい作品です。言葉には言葉独特の重力みたいなものがありますが、その力から言葉が自由に発想されている感じがします。第一話の「春の回線」では、現実に押しつぶされた育児ノイローゼの私がクレイマーと化します。それがなぜか、ヘビイチゴと名乗る苦情係の女と接した瞬間、眼からうろこの落ちるがごとく、ノイローゼから快復してしまうのです。ここのところはどうしてなのかわかりません。辞書には、ヘビイチゴは俗に有毒と信じられているが実は無毒、とありました。ヘビイチゴという言葉の解毒作用だったのでしょうか。二話の「日曜の女」は、空間と時間の多面体的な世界を、現実の三次元に順序だてるとこんな作品になるのでは? 第四話の「魔物たち」は、魔物が複数であることに注目させているのかも。「湖底にて」は、現代の竜宮城…。

放出の色 (前編)

周到な構成のある作品です。まず七年前の外れてしまったノストラダムスの大予言から書き出され、現在の14歳になった今が展開されます。14歳です。P28下段の「根拠なき自信」は、よく言われる「根拠なき万能感」ということでしょう。個性教育と自由教育、けれども徹底した管理教育のもとで、押し込められた個性と自由が繰り広げる方向性を見いだせない世界が描写されています。と読んでしまうのですが、前編の布石の段階で結末がどうなるのかはまだわかりません。14歳15歳は自意識の発達のための関所みたいなものですから、妙に怖い事件が展開される気がして、ハラハラしています。嘘と真実の関係で、「雪が降る」が当てってしまい、だけれどそれが単なる嘘なのだということを知っている「僕」の闇は深く、後篇が待ち遠しいです。

私的文芸観

作品の背後には「思想とか感情」が存在していると、川端康成の『雪国』と小林多喜二の『蟹工船』を引き合いに出して論じられ始め、次に作家論的に、作者の背後にはなんらかの「情緒」があるのだと転じ、「創造するとは人間の根源的な欲求ではないか」と、一区切りをつけています。作者の考察は、芸術→人間→芸術、といった順当な俯瞰図に沿って論じられています。基本的なことを押さえて自分なりの文学観を構築することは、創作する上でも、文学作品を読む場合にも必要なことです。なお、作者が結末で述べられているように、「直観を磨く」ことが大事で、それは固定観念を打破する永遠の作業です。全体と細部を考慮しながらの表現作業は、絶えず矛盾を露呈してしまうでしょう。作者はそれでも人間は創作する衝動を持っているのだと主張したのが、この作品です。

牧歌時代・半世紀前の田舎風景

戦後のある時期の事を、郷愁をこめて書かれた作品だと感じました。一人称視点からの描写なのですが、作者は公正さを保つために客観的表現に徹し書かれたのだと思います。そのために返って当時の空気感みたいなものがそのままの形で表現され、貧しい生活や心情の豊かさが共に描かれているのです。新しく入った開拓団なのに、当時の村が好意的に受け入れた雰囲気とか、開拓団が新しい酪農への挑戦する様子、団長が「ジャージャ」と呼ばせる、そのシベリヤ抑留を伺わせる雰囲気、パーやビー玉やベーゴマの遊び、開拓団の石炭ガラを利用した道路整備、乳牛の死、遠足、さまざまな牧歌時代が書き込まれていきます。キノコ採りは懐かしいです。私も子供のころハツタケ採りに行ったことがあります。かなりたくさん採り、父や母が喜んだ記憶だけが残っています。

ぼくは天の川の距離を知っている (前編)

一見すると、普通のファンタジー小説、あるいは幻想的作品に見えますが、ここには一味違った作者ならではの発想があり、かなり斬新な構成が施されています。天の川は、私たち太陽系が属する銀河です。とは言え、その端から端までの距離は10万光年もあり、遠くの遠く、その遠くなのです。天の川までの距離は遠いけれど、同時に私たちはその天の川の一端にいるのだというのが、この作品のミソでしょう。〈時々町で爆発がある〉、あたりで読者は戦後の焼け野原をイメージしてしまいますが、爆発はあるけれど町はいたって平穏、かつての空爆とは異なるものだと思わせる描写が必要かもしれません。後篇が楽しみです。