毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
小山田浩子『穴』、黒田夏子『abさんご』、柴崎友香『春の庭』を取り上げての読書雑記です。柴崎友香はもっと評価されてもよいとの意見を出された方がいました。私としては黒田夏子『abさんご』しか読んでなくて、この三人の女性作家を比較することはできません。黒田夏子さんの『abさんご』は、確かに「言葉の言い違えや技巧が並列されている」と思いました。「abさんご」のタイトルは、なんとなくではありますが、〈産後〉の自分の辿ったあれこれ、つまりaだったりbだったりの道筋みたいなものを書いた作品で、その随筆性が万葉風だと思わせるのかと感じました。新しいものと古いものの融合が、この作品の面白さでしょう。おそらく、この三人の作品の中では一番風変りなのか、評判は一番わるかったです。小説を読むということは、その作品から何かを学ぼうとするとたいへん難しい作業です。学びもするが楽しみもする、そんな読書をしたいものです。
面白い構成の随筆です。「叩きか遺伝か」と置き、次に「地中海夫人」と展開させていて、その「地中海夫人」のコーナーがどことなく小説風なのです。作者の新しい境地が伺えます。作品は、髪は女の命…いやいや男にとっても命なのだと展開されていき、自分の身の上…頭の上の履歴を面白可笑しく描写しています。私の実感としては、人間も動物ですから、夏場が終わると冬の毛髪に映え換わるのですが、人生50年のはずが80年となった現代、その伸びた30年に「神も仏も」手が回らないらしく、この作品のごとくの「惨状」を露呈するのです。ああ…、としか言いようがありませんが、なぜ髪に憧れるのか、それは「地中海夫人」で明らかであるように女性にモテタイからで、男の邪心というよりも本心にかかわる大問題だと言ってもよいでしょう。「リアップ」はまさに「リアップ」なのです。映画をよく観ているのですね。しかも深く味わっているのには感心します。
連載物ですので、前の作品を読んでいないとよくわからないとの意見が出されました。それに読んでいたとしても、記憶がうすれてしまった、とのことでした。この作品は「もも子さんと先生」の対話を主体にした小説で、ストーリーは特にありません。念頭にあるのは、とにかく10回の連載をしようということだけです。もも子さんのリアリズムと、先生のマイナーな文学観がぶつかりあいながら、1回、1回と展開される作品です。10回も読まされるのかと思うとうんざりしてしまうかもしれませんが、どうぞよろしくお願いいたします。うまく書かなければいけないと思いつつ、どこかギクシャクしてしまい、スムーズに運ばない欠点は承知するところです。もも子さんと先生との間で統一見解に達することは、おそらくないでしょう。無意味ですれ違いのままで終わってしまうのか、いましばらく対話させていこうと思います。
時代小説、歴史小説といったものは、その時代の人物や物事を「点」で想起させ、なおかつ、それを線につないで私たちに考えさせてくれます。そのことを成すためには特有な文体のようなものが必要で、それがこの作品に表現されているところの「客観」的視点なのです。味わいのある文体だと思いました。一般的に言われる石田三成の得意とする兵站を、武将の生き様としての家族愛に絡めさせて描いてあるのがこの作品です。三成の無惨さとは裏腹に、ほのぼのとした雰囲気が漂ってきます。戦国時代は織田・豊臣・徳川と天下取りがあったのだとよく言われますが、見方を変えれば、浅井長政がどちらに転んでも、つまり豊臣であろうと徳川であろうと、実質的には天下を取ったのではなかろうかと、私には思われてなりません。血筋といいますが、母からの血の方が濃いのですから、血縁的にはそういうことなのでは……。まあ、男社会ゆえの歴史なのでしょう
おもしろい作品です。短い随筆なのですが、読んだ後で、なんとなく言葉と文章について考えさせるものがあります。言葉は意味であるけれど、それが文章となると、言葉の意味だけではない奥域のあることを感じさせてくれるのです。東北の観光で印象に残るのは、よくは知らないのですが、鬼の仮面を被った舞踏が多いことを想起させられます。ねぶた祭りもその変形なのでは……。アテルイの記憶などもいかにも東北です。作品に書かれた東北の旅は、津軽三味線と太宰治です。この取り合わせは、たまたま津軽三味線会館と太宰治会館が向かい合わせになっているところからのものだそうです。リズムの津軽三味線、抒情の太宰治と考えると、三味が東北の大地のリズムで、太宰文学が心の響きで、その二つが合わさって東北の魂の旅なのだと感受しました。いかにもリアリズム文体の心地よさが味わえる小品です。
タイトルに対しては疑問を指摘する方が何人かいました。確かにこのタイトルの付け方は作者目線からのもので、作品自体から少し離れたところがあります。もっとも、そうなってしまったのは作者の大いなる目論見があってのことなのですから、次作に活かされることでしょう。作者からのコメントで、寿秋と悠斗を4年生にしたのは「性の未分化」の年齢であることによるものだそうです。ウィーン少年合唱団のあの声は男でも女でもない、無性の声、エンジェル・ヴォイスなのだと聞いたことがあります。宮沢賢治の『銀河鉄道』をも彷彿とさせる作品でしょう。崖に咲く二つのユリの花の一つが摘まれてしまう挿入は、それに相当する女性の登場、あるいは悠斗の死を連想させられますが、単に挿話に終わってしまっている感がしました。ストーリー、物語をうまく展開できなかったのは、おそらくリアルな現実を舞台に描いたためでしょう。
醍醐味があります。それなりに名のある作家のうごめきを、目に見える形で示してくれるこの作品は、知識の皆無な私にはとても勉強になります。今回のメインは森鴎外の評論誌における田山花袋の酷評と、なんといっても尾崎紅葉の『金色夜叉』にまつわる背景だと思います。私が驚いたのは、森鴎外や幸田露伴、斉藤緑雨といった大作家が読者向けとはいえ、このようにレベルの低い作品評をしていたとは、ほんとに驚きでした。当時としては、田山花袋なんて海のものとも山のものともわからなくて、それゆえの仕方なさなのかもしれません。かえって、文学という餅の搗き初めの時代がよく見える紹介になっていて感心しました。田山花袋と樋口一葉の比較では、私は、多くの方が樋口一葉に肩を入れし過ぎているのではないかと思うのですが、判官贔屓、さてどうなのでしょうか。尾崎紅葉と田山花袋に焦点を当てての作者の評論、いよいよ真価を発揮しています。