毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
鯉。銭湯、番台、町に不似合いな男、裸、湯船で泳ぐ男、と情景が順次視線を移す形で描写されていきますが、「靴箱もロッカーも、格天井も旧い木製である。一本の巨木で造られているなんてことはまさかあるまいが、/木目がよく似た/禍々しい世界」と、同一世界にある無限なすれ違い風な感じの作品だと思いました。ところが、男が湯船で泳ぐ光景を見て世界が一変するのです。まるで木目で境界づけられ無縁であった関係が、木目を超えた「泳ぐ=鯉」によって、一瞬にして意外性という対象性が現われるのです。「僕」という主語で表現される世界、他者の出現の妙がこの作品の味わいどころになっています。「僕」と5回表記され、1回は「私」の表記がなされています。女湯に男は壁を擦り抜け行ってしまい、その女湯の様子を想像する時「僕」も僕を擦り抜け、一瞬だけ「私」になって自分の主語を逸脱するのです。「視点」を意識しての創作は見事です。とはいえ、その一変する前の描写も一変した後の描写もリアリズム文体で、一考の余地はあります。
かなり意味深な作品です。傾聴ボランティアの活動をしている園江が千代子の話を聞き、聞いた話の捨て場所がないので、毎晩、孫娘に子守り歌代わりに話して聞かせる、といった構造のもとに書かれている作品です。「真実の話は眠りと共に始まるもの。体の奥まで、しみ込んだ物語は、きっといつか役に立つだろう」と、女の業の深さを読者にあらかじめ知らせて、「紙切り屋敷」に入っていきます。園江が千代子から傾聴するのは、紙切りと性的な体験談です。千代子の男遊びは快楽を超えたところのもので、夫や家族を取り戻そうとする、家族再構築のための一種の代償行為に等しいものです。だから、夫が自分から離れてしまうと性に対する興味もなくなって、紙切りだけが生甲斐として残ったのです。三次元の現実を二次元に切り取る、最初は舞台に立つほどだった腕前も、現実と似ても似つかない形になってしまいます。園江はそれを上達したと感じ取る感性を持っています。ついに紙は、細かく切ることだけになってしまいますが、シュールです。それが現実かも…。
歯切れのよい随筆に感じます。クラス会に集まる同級生をカテゴリー的に分類し、何が書かれるのかと思って読み進むと、父の葬儀の際、特に親しかったわけでもないけれど必要に迫られ受付を頼んだ、その時の〈Ⅰ類・カテゴリーS〉であった同級生の妻が無沙汰のうちに亡くなられたとのこと。父の葬儀の受付のお礼も済ませていなかった僕は、七日の四週目にあたる「よなぬか」に花を祭壇に手向けに同級生宅を訪問する、という作品です。四十九日にまつわる法事のことが、なるほどと得心するように書かれています。気になったのは、亡くなった同級生の妻の名前の記述がなく、僕の行為に即しての描写が主になっている点です。葬儀にしても結婚式にしても主役は明らかなのですから、名前とか戒名を記さないと締まらない感じがします。筆運びから、かなり時間の経った記憶の作品なのかもしれません。同級生の彼も、そのご子息も明るく表現されていて、違和感がありました。もつともそれを書くとすれば随筆ではなく小説になってしまうのかも……。
言葉と思考に共に柔らかい作品というものは、読んでいてとても楽しいです。前篇から後篇にかけて作品の質感みたいなものは随分と変化しています。ミステリィっぽかったりコメディっぽかったりしたものが、後半では、主に時間のない世界が書き出されています。この変化を読者は美影さんと母の二重性に感じながら読み進むのではないかと思われました。その美影さんという人物の造形において、この作品は成功しているでしょう。「早く、拾わないと」なんて発する美影さんの言葉には、何をしたらよいかわからない、おそらく時間のない幻想の世界にさ迷うしかない僕に、現実を突き付けるのです。それを母の言葉に感じるとき、父や母、栗嫌いの僕、家族のバラバラ感に対して一瞬にして方向性が現われるのです。美影さんがミカゲになる辺りから、また作品の質が変化します。もしかすると幻想から現実への転換なのかもしれませんが、終わらせるための一計とも取ることができます。この作品は作者にとって実り豊かな「栗部」になったのでは……。
おもしろい作品です。脳梗塞で入院したときのことであり、当の「忘れ得ぬ人」は亡くなられているので、そのことを「おもしろい」と形容するのは憚ってしかるべきなのですが、おもしろいというのは内容についてではなく、作品の構造に関することです。「あなたの忘れ得ぬ人ってどんな人?」と尋ねられたとすれば、なにかしら特別の人のことを聞かれたことになります。ところがこの質問はそのままになり、時間を経た現在になって宛先のない返事をしたのが、この作品なのです。「忘れ得ぬ人」と質問を受けたときのことを思い、同じ病院に入院していたUさんを、今になって忘れ得ぬ人として思い出していることがおもしろいのです。Uさんは随分と苦労されたけれど成功した方で、他界されたと風の便りに聞き及んでいます。このとき、亡くなられたUさんと現在も元気に生きている私の対比が自分になされ、なにかしら心の黙とうをしているかのようです。映画の名優は余分な気がしましたが、これは「Uさん」を登場させるための前置きだったのでしょう。
「はみだしサラリーマンの投資経済史」と銘打ってありますので、投資の側面から自分史に挑んだ、かなり奇抜な作品だと思いました。経済・投資・自分史です。日本には世界に先駆けて相場取引なる複雑な商取引市場が誕生しており、世界で最初の成功者として名を馳せたのが、「本間様にはおよびもしないが、せめてなりたや殿様に」と唄われた本間氏です。作者は株式から商品取引に移るに際して、松本清張、投資経済研究所の林田先生、種山物産の池田部長と教えをいただき、順次細心の注意を怠りません。なるほどと思わせます。やくざな世界を生き抜く鉄則が「禁欲」だというのも納得がいきます。株の世界の人ですが、日本で言えば是川銀蔵、アメリカで言えば現役のバフェット氏が有名です。二人とも禁欲的な生活をしています。禁欲にならざるを得ないのは、罫線(?)を毎日引かなければならず、ただひたすら努力の毎日だからです。どこか研究に没頭する学者や、創作に邁進する作家に似ています。投資の舞台とは、そういうことなのだと思います。