2015年5月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:5月17日(日)
  • 例会出席者:14名

雑記 6

 今回の「雑記」の要点は三つだと思いました。「嘘をつくと結局自分が苦しくなる」「トーマス・マンの『魔の山』は難しかった」「電車に乗った際等のマナーへの自問」の三つです。それぞれ面白かったです。面白かったのですが、嘘をついてしまった時の「僕」、『魔の山』を読んだ時の「僕」、若い視覚障害者の女性に電車で席を譲らなかった時の「僕」、それぞれの時の「僕」の内面のことを、もう少し詳しく書かれるとよいと感じました。特に「ある雨降りの日に」で書かれた電車内のことは、これだけを長目に書かれたら小説になると思います。それに、もしかしたら、この出来事は、3月15日の文学市場の例会に参加しての帰りに遭われたことではないでしょうか。なんとなくそう思われます。『魔の山』に関しては、何がわからなかったのか、文体なのか、書かれている思考なのか……、もっともそれを書いたら、理解して読んだってことになってしまいますね。

我が家のスワン ⑤

 スワンの活躍ぶり、毎回楽しみです。今回は「きなこさん」との婚約エピソードですが、際立っているのは「僕」の思い込みみたいなものです。そのことがよく伺えて、なるほどと感心しました。スワンの恋心を成就させようと、そのための手立てを「パターン1」から「パターンおまけ」まで含めて「3パターン」を意図して、僕は盛り上がっています。僕は盛り上がるのですが、実際にスワンときなこさんとの間を自然な形で取り持ったのは「妻」で、ここのところが「なるほど」なのです。もしかして、スワンの面倒を僕は見ているつもりになっているけれど、実際に「僕」と「妻」、また家庭の円満を取り持っているのはスワンなのではないか。スワンあっての家庭円満。またご近所さんとのそれなりの交流ができているのも、スワンのお蔭なのかと、思われました。次回の⑥ではどのような展開があるのか、「さくさく」のオアシスみたいなコーナーですから楽しみです。

あるケニア人の死

 なんとなく小説というものを考えさせられる作品だな、と思いました。ケニア人で名前をジョン、これが本名かどうかはわかりませんが、駅伝ランナーとして日本に来て、ヒザを痛め引退、その後バラエティ番組のタレントとして活躍、帰国してサファリ事業を経営、等々は事実だそうです。不思議だと思うのは、この作品に出合う以前に、もしかするとテレビでジョンの走る雄姿を私たちは見ていたかもしれず、見たけれど記憶に残らず、それがこの作品にて、その人柄となりを読んだということは不思議以外のなにものでもありません。タイトルにある「死」の、ほとんどすべての人たちの死はこのようなものなのかもしれません。知らないけれど、それらの一人ひとりに物語があるということを考えさせられました。作者は外国に詳しいそうです。この作品にあるような端正な文章で、これから様々な体験を書いて私たちを楽しませてくれるものと期待しています。

夕日の人魚

 とても美しく抒情的な詩です。冒頭に「嵐」と言葉を置き、三連目で「汚れた海の彼方から」と表現した詩形から、自ずと福島原発事故の放射能汚染を想起させられました。人魚そのものには、あらゆるものの象徴がなされているのでしょう。「人・魚」の「人」は陸に生きる人間、「魚」は大半の放射能がすでに流れ込んでしまったと想像される海であり、そこに生きるものたちのことです。幻想上の人魚にあらゆる生きるものの命と魂の意味を籠めたこの作品で、子や孫の世代に幸いあれと祈るのです。「預かってください」と「赤子をさしだ」された、その受けては読者であり、未来は私たちに託されているのです。もちろん責任でもあります。このように解釈すると、二十行では表現しきれない詩なのではないかと感じました。せめて四十行~五十行くらいの長さになると充実するのでは。「夕陽…」に「朝陽…」を希求させる余韻があり、抒情詩の本領を発揮しています。

影と小説家

 もしかするとタイムリーな作品です。実際に小説を書く機械が近い将来に現われるのではないか、と思われる現在だからです。それに一般的に、作家に独創性があると思うのは幻想で、作家がこれまでに読んだ本の記憶と、作家の個人的体験、この二つが絡み合って、その作家の小説は書かれているだけなのだと、なにかで読んだことがあります。要は、作家の頭の中に小説を書く機械があるようなものです。人工知能も進化しています。ですからタイムリーなのです。作品は、やや小説を書く機械に特化していますが、この土台の上に、修理と黒い箱とインコの恋愛の三角関係を展開させると、変な話ですが、幻想性がよりリアルになって作品が深まると思いました。作品を見る目を持ったジャーナリストを登場させているのも、この作品をリアルにしているでしょう。貴重な存在です。ジャーナリストの登場場面を多くすると、たぶん難解な小説にもなります。

ファディスタ

 通常の作品が持つベクトルの向きと、逆になっているような小説だと思いました。一般的な作品としての小説は、言葉を集合させ、矛盾や葛藤を生じさせ、その様々の凝縮が物語となって現出するのですが、この作品においては逆向きにはたらき、言葉が離散してしまうのです。その結果、残された小説空間には、ただ空虚さや淋しさがむなしく満たされているだけの、何もない世界になって表現されます。ポルトガル民族音楽ともいうべき「ファド」の多くは、海に出て、帰ってこない夫や兄弟を想い歌った唄だ…そうです。そこにイメージをもらったゆえの作風なのかもしれませんが、独特の小説になっていることは確かです。ストーリーや物語を楽しむのではなく、言ってみれば、そこに書かれた一文々々の「文体」を読んで味わう作品だと感じました。とはいえ、友哉・修二・凜子・フライディ、相互の結び目を描かなければ、「ほぐれる」有効性もないのかも…。

成金城址に陽は落ちて

 かなりハチャメチャな男、守銭溜衛門をまるで額縁に入れるかのように描写している作品です。よって作品の構成は、導入部で「男」と表記、作品の本体部分では「守銭溜衛門」であり、その一人称視点での三人称作品になっています。結末では「彼」と表記、読者と守銭溜衛門をきっちり共有したかのように、まさに額縁的な終わり方をしている作品です。しかも本体部分は夢か幻か、現実ではありません。まあ、守銭溜衛門の踏んだり蹴ったりの一コマが表現されている作品です。何が悲惨かといって、現在のご時世ほどひどいものはないでしょう。昔なら、十年経つと貯金は二倍になり、二十年経つと四倍になったものです。三十年も経つと、もう立派な資産家といってもよいくらいの金が溜まったものです。ところが、現在では三十年経ってもほぼゼロでしょう。もっとも、それでも守銭溜衛門は頑張るのですから、作者は、見事な喜劇&悲劇の人物を抽出したものです。