2015年4月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:4月19日(日)
  • 例会出席者:14名

映画日記 39

 今回は、ちょっと変わった「映画日記」になっていると感じました。作者の映画を観た感想・主観が表記されていて、親しみの湧く映画紹介になっています。それに、映画が社会や世界を写す鏡だとすると、その世界に対する社会批評なども発言されていて、主張に賛成する場合も、反対である場合にしても、より深く映画というものを考えさせてくれると思いました。中国における精神病棟の実情は、それは直ちにわが国における情況に反転して問いかけられるし、想田和弘著作『熱狂なきファシズム』からの問題提起は意味深、P264下段にての「現代の両国は、絶えず中国が視野にある」など、いかにも現代の世界がスリリングに提起されています。なお、P256下段にある「評価力の試されるのは、中間レベルの作品だ」は、いかにも映画を愛する作者の矜持であるでしょう。なるほどと、納得しました。江古田映画祭の有志の感想会で、若い女性が、町の映画館が一つ、また一つと消えていく、と涙を流して残念がっていたのを記憶に留めています。

短歌・白き秋

 「白き秋」では内省・自省の歌を、「金箔の月」では風景を、「芙蓉咲くみち」では風景と自己との融合、「ルーブル美術館の名画」では追憶と回想を詠みこんでいます。「白き秋」二首目、「朝まだき庭に鳴きそむる法師蝉のリズム早まりて鳴き終はりたり」は、永遠の一瞬をとらえてみごとです。普段ならまだ鳴き始めない朝早くに鳴き始めた蝉に、鳴き急ぎの気配を察し聴くともなく聴いていると、徐々に息を短くして鳴きあがってしまった。その無音になった一瞬こそ「白き秋」と見たのではないかと感じました。言うに言われない「こころ」があります。「芙蓉咲くみち」一首目の、「月蝕の月仰ぎつつかげりきてうるむ光に濡るるうつし身」は秀歌です。単純に言ってしまえば、月蝕を見ている私、なのですが、月と私の相関において、相互の置き換えや反復することによる一体感が詠みこまれ、難解な一首となっております。「うるむ光に濡るるうつし身」をいつか理解できるようになりたいものです。

鳴虫山

 なんといっても面白い小説です。23歳の早紀と60歳のぼくとの、言ってみれば婚約解消のための鳴虫山登山ということで、興味が湧かないはずがありません。婚約解消に焦点を当てて書いているため、いささか二人の馴れ初めみたいな事柄が経歴的に書かれてしまい、心の、いわば愛情の部分が不足しているように感じました。そんなところから合評会では、もし結婚してもうまくいかないのではないか、という意見が多く出されました。ですが、作者はそこをどうにかクリアされているのではないかと思いました。事実としての地理をうまく取り込んでいるのです。鳴虫山の手前に神ノ主山があり、この神ノ主山がある種の神事を為したのではないでしょうか。結果として鳴虫山を制覇することになり、二人はおそらくゴールインとなるのです。それにしても栃木県にはロマンチックな地名が多いですね。思い川というのもあれば、月夜野という地名もあります。作者は数多くの登山をされていて、鳴虫山からの連想がこの作品になったのでは……。

二重惑星 四

 SF小説、それも宇宙に関しての作品は難しいです。おそらく哲学小説と双璧をなしているでしょう。なにしろ物理学は近年飛躍的な発達を遂げ、それらを理解した上でなければ書けないからです。仮説としては、我々の宇宙とは別の宇宙が存在することは成り立つそうです。でも実際には、我々の宇宙での統一理論もままならない現状で、我々の物理法則とは別の物理法則が想定される別の宇宙との行き来は夢のまた夢なのです。作者はその夢に果敢に挑戦しております。いくぶん粗筋的な展開で、物理に疎い読者を充分に納得させる書き方にはなっていませんが、そこはそれ、なにしろ難しいのですから、現時点で作者にそのことを要求しても無理なことです。でも作者は無事に作品を軟着陸させることに成功しているでしょう。お疲れ様でした。これだけの作品を書くと、頭の中が痺れ、さぞかし四苦八苦されたのではないかとお察しいたします。わからないことに挑戦することは、そのこと自体に意義があります。次回の作品でも楽しませてください。

メイシャー(没事儿)

 万事に行き届いた作品だとの評判でした。良い小説とはこのような作品のことである、との感想です。自然主義文学の手法で書かれている作品なのかと思いました。いわゆる客観性で表現される文章・文体なのです。自然や出来事を見る場合、極力主観を排除し見たものそのままを表現する文学潮流です。作者は読者に主観で対応せず、客観的に表現することを通して、それを受け取った読者にその後の感想を託すのです。方法論に則って表現された作品は、とても読み応え、味わいがあるのだなと、この作品を読んで実感しました。見事なものです。それに展開がうまいです。うんこを漏らしたエピソードから入り、麗華の「幸平、泣くな」の言葉は、林さんのメイシャーの大きな人生観の中に程よい人情をあしらって、作品全体を優しく包んでくれます。冒頭と結末が現在で本文は回想なのですが、その冒頭と結末の間に時間的・空間的なずれがあり、いくぶんちぐはぐな感じを受けました。冒頭の回想に戻り締めくくると、より印象が強くなるのでは……。

をとも

 美奈の日常を、友人の静香と木戸君を登場させて描いた作品です。日常において間違いや失敗は数知れずあるものですが、それを、女性目線で男でありながら細々と描写できる作者の筆力には脱帽します。心の動き、言葉の微細さが巧みに表現されています。「をとも」は「『を』と『も』」なのですが、「お友達」という意味にも類推できれば、「お供」の主従関係をも彷彿とさせるものです。ですので、「をとも」という言葉の使用の間違いを指したタイトル自体が、二重の意味で読み違えを誘う仕掛けにもなっています。おもしろい趣向です。30年も前の鉛筆を盗まれたことで、静香にしてみれば盗んだことでこのような顛末になるだろうか、とリアルさの問題について何人かの方から指摘がありました。真の友情を育まないままの友情だと、あり得るのではないかと思うのですが……。木田君の場合は、静香の場合と立場が逆転しての展開があり、夫との関係では静香と同様の枠組み、娘との関係は木田君風ですが、いずれ壊れる予感を漂わせています。