2015年2月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:2月15日(日)
  • 例会出席者:8名

女は自慢 男は我慢

 たいへん面白い随筆だ、と評判でした。女の自慢は尽くして愛した夫からの〈ありがとう〉の言葉で、その言葉は「心の宝石」なのだ、の指摘は、女性陣からはそのとおりだという賛意、男性陣からも納得の声が上がりました。それにしても見事な文章ですね。随筆の主語は「私」です。その私がよそよそしかったり、あまりに客観的過ぎると、時として作品に入りづらくなってしまうものです。それがありません。主語が文章とピッタリと合致しているのです。また、交際範囲の広い方のお話は話題が多く、内容的にも楽しめます。一番まじめな花岡よりも、一番悪い奴の花岡に男性陣が興味を寄せたのは、これは如何に? といったところです。我慢しなければならない男にしてみれば、まじめ原理主義者である花岡的生き方は、やはりうらやましいのかもしれません。

娘の就活

 父親の娘を思う気持ちが淡々と伝わってくる作品です。そうした描写の中に、「娘なのに、まるで昔の恋人に会うかのような緊張」や、「その顔はゆがんでいて寂しそうだ。友だちなどには決して見せない表情なのだろうが、父親ということで甘えているのだ。そう思うと嬉しい気もするが、どう受け止めていいか分らなかった」などの心の襞がさりげなく挿入されていて、いっそう父娘の静かな情感が漂ってきます。うまいものです。千里の大学受験、四年生大学への編入試験、そして就職活動なのですが、娘はこんなに頑張っているのに、それに対して社会が、制度はあるのに機能していない様などがつづられ、化粧っ気のない娘を見つめる父親がよく表現されています。この作品はバブル崩壊の頃です。あれから二十数年経ちますが、千里さんの幸を願うばかりです。

金魚妻 後篇

 かなり文学的な作品です。誠は智也を好きです。智也は本木さんを好きです。本木さんは、おそらく智也が好きなのです。誠はこのことを知っていて、あえて本木さんと結婚するのです。なぜ結婚するかは、いつまでも智也を手離したくないからです。誠と本木さんの共謀の結果、誠の望む結果となります。不思議にも、このことを本木さんも望むような節があり、拒絶しない智也も奇妙です。もしかしたら、空気よりもはるかに密度の高い水、水槽の世界にしか、もはや互いの存在や互いの関係を維持する場はないのだということの、象徴的作品なのかもしれません。もっとも、このような意識の深部を表現する場合、この作品の書かれた文体でよいのかどうかは微妙だと感じました。それに、智也の魅力や本木さんの複雑な心の描写がいくぶん不足しているように感じました。

こけつまろびつ、さて今日も 四

 辞書で「まろび」を引いてみました。「まろび」は「転ぶ」という意味なのですね。「こけつまろびつ」は、してみると「踏んだり蹴ったり」と似たニュアンスの言葉なのだと、遅まきながら理解したしだいです。この作品の優れているところは、行為・行動をそのまま、どんなに方向違いであっても貫徹しているところにあります。〈故きを温ねて新しきを知る〉など、なんのその、自己の思うがままを突き進むのです。「不審者あり」には、思わず笑ってしまいました。とある入浴施設、たむろして談笑するおばさんたち、入った時と出た時とで脱衣所の位置関係が変更されてしまい、見目うるわしき裸体をバスタオル一枚に包む里子、あたしの服をしまったロッカーが見当たらない。問題が解決してみると、あのおばさんたちは、今度は里子を笑いの種にするのだろうなどと……。

楽園

 幻想的な作品です。冒頭に、「小高い丘の上に、ひとつの家がある」と書かれています。この「家」に対して、正面とか裏手とか書かれると、その丘の上である「家」自体がなんとなく架空の存在であるかのような趣になります。五歳の時に母の家出(死)。六歳の日に猫の林道と車道の交叉するところでの死。妹が、猫を抱いた母の絵を描きます。そして、その一ヶ月後に妹も死んでしまいます。久司が二十歳になった時、父が死期を迎えます。末期がん。花火大会に人が集ますが、そのやがて打ち上げられるであろう花火を想像して、「失った感覚が蘇るような気が」します。そこには、母が猫を抱き、妹がいて、その横に父が立ち、やがて久司も加わることになる「丘の上の家」の絵が完成するのでは……。忘れられてゆく、現代神話みたいな作品でしょう。

開かずの間

 盛沢山の作中の流れがあって、それらのことを一つひとつ楽しむことができました。ですが、それらのことをていねいに表現するあまり、肝腎の主体たる茜のことが、いくぶん引っこんでしまったかもしれません。そもそも、「放課後」と置いて、次に回想が描写されますが、この書き方は短編向きの書き方なのだと思います。魅力的な人物を立てることには優れています。途中まで、もちろん茜が主人公なのですが、そのお相手は小嶋と笹倉かと思っていました。それがやはり合唱部の面々が主要な役割を果たす流れに戻り、父と母との音楽的な出会いの顛末、「みにくいアヒルの子」のキーワードで、めでたしめでたしになるのです。才能を磨くということの困難さを「開かずの間」で象徴させています。音楽の微妙な「音」に関する描写には感心させられました。

明治文壇の群像 その六

 今回の国木田独歩には度肝を抜かれました。尾崎紅葉とか田山花袋には、個性はありますが作家としての矜持も感じられましたが、国木田独歩にはそれをはみ出してしまう破天荒さがあります。そこには『武蔵野』という、いわば自然を発見した日本で初めての小説を書いた作家に似つかわしくない行状が、克明に披露されています。「ノンフィクション評論、小説入り」といった形で……。もしかすると、自然を発見する目とは、動物の野生の目なのかもしれないと感じたほどです。その目が幸運にも評価されたのかも…。と高をくくったのでは、独歩を見誤ってしまかもしれませんが。いずれにしても、独歩に比較して、田山花袋のしょぼくれた文学青年振りが引き立った章だと感じました。「貧乏」と言いますが、いかほどのものだったか、エリートの貧乏は信用なりません。

人生の観法

 病める現代を提起した作品だと思いました。私の友人に、美人の精神科医がいます。彼女が十五年くらい前に、医者仲間と勉強会をやっていて、それが「内観法」でした。薬で治療することには限界があり、自己治癒力を高めなければならない、とのことでした。「人生の観法」は、どことなく「内観法」と通じるところがあり、納得いたしました。それにしても良書というものは、よいですね。小林秀雄、宮本武蔵、論語、男と女の脳科学、確かにこれらには学ぶべき事柄が沢山含まれています。要は、学んだものを自分の身の回りの世界に見ることができるかどうかで、それができた暁に、ほんとうの自分に出会えるのでしょう。作者は哲学や思想に、ここのところ興味を持っています。かなり難しい領域ですが、いろいろと紹介していただけると、ありがたいです。