毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
「ああ、わたしは、はじめて/文学というものに会った!」と書き出し、その感動を七十数行の詩の言葉に刻んでいます。また、三連目にある「文学とは、/この距離をいうのだ。」は、作者の掴んだ「文学」がいかなるものであるのかを的確に語っているでしょう。文学とは神棚に飾って有難がるようなものではなく、存在する人間との触れ合い、声を聞き、姿を見る、そこにこそあるのだと作者は感動し発見したのです。文学の復権がここにはあるのだ、そこに作者は感動しているのです。石牟礼道子女史の歩いた道を、作者もまた歩きはじめた瞬間、記念すべき詩作品だと言えるでしょう。この作品を、水俣病の記念館のようなところに送られたらいかがでしょうか。また、詩の雑誌、「詩と思想」その他に投稿されることをお勧めします。詩の文学賞は単行本に対するものが多いのですが、「伊東静雄賞」は一篇の詩での募集ですので、応募することが可能です。
今回は男と男の友情にまつわる、スワンと僕の顛末です。猫として他者であるスワンではあるけれど、我が家で雄であるのはスワンと僕の二人きりであり、メスに対して性別における他者であるのは僕もスワンも同じです。そこに複雑な外交的な端緒があるのです。まずはスワンとの平和的な国交樹立が望まれるのです。言葉の錯誤は多々あるのだけれど、それゆえの猫パンチの応酬でありましょう。猫パンチって、もしかすると仮想敵国である犬、犬の甘噛みに相当するものなのではないかと思われます。すでにそこには遊び合うという、掛け替えのない友情が見られるのです。まあ、例えスワンと同盟を結んだところで、我が家で劣勢なのは目に見えています。「僕」の外交手腕が見どころとなりましょうし、女性陣にとつても僕にとっても他者である、スワンの平和の使者ぶりが見ものとなりましょう。スワンは、きっと、とんでもない平和の使者なのでは……?
とても味わいのある短歌です。〈堆朱〉に八首、〈亡父のクラス会〉に七首、〈ブルーのストール〉に八首、〈黒き貨車〉に七首、……からなる『堆朱』です。八首と七首という、縁起のよい数字に構成してあるのも新年に相応しく、作者の祈りのようなものを感じます。「晩春の瀬波の浜を夫や子と駆けまはりたる海のまぶしさ」は幸いです。いかにも「晩春」の希望に満ちあふれた家族の光景であります。〈ブルーのストール〉は、あの時この時の、それぞれの贈り物に対する感謝状のような歌です。「山形のさくらんぼ姪より送りきぬ電話をしつつ一つ味見す」など、山形の姪からさくらんぼが送られてきた、お礼の電話口で一つ口に含んでみるのだけれど、口に含んだ私はすでに山形にいる境地です。そこに距離のない親族、おばと姪の親しみだけが浮かんできます。末尾の「連なれる真黒き貨車」は、詠者の鋭い時代感覚だと思いました。平和への願いが窺われます。
とてもよい作品です。死に近づくに従って、その死というものが定かではなくなっていく、その鬼気迫る描写を、この作品はリアルに表現しています。一箇所だけ難点を指摘すれば、P52の下段からの回想的説明の部分です。ここで「だった」の述語が多用されています。回想場面に入るときには、回想であることを示さなければなりませんが、一度回想に入ってしまったら、その回想の連続性がなければいけません。「だった」を多用すると、何度も、回想場面の時間と基準となる現在時間が往復してしまい、せっかく回想描写をした重層性を損ないます。この一点だけが気になりました。結末の部分など、まさに秀逸です。純然たる三人称から、三人称一人称視点に移行した書き方をして、なおかつ最後には、祐造を老人と表記、より彼岸に近づいた表現にしています。そこに読者は生の美しさと哀しさを味わいます。
客観的文体で、小説であることを楽しむというよりも、問題提起の作品だと読みました。〈無罪→でも少年は快復しない〉がベースにあります。父と母と充の三人家族の生活だったけれど、母が亡くなってしまい、祖母がその母の代理を果たしていた、まではよかったけれど、その祖母も一年前に亡くなってしまったのです。そこに女が入り込んできます。最初、偶然にも父と女のセックス場面を見てしまった、そこから何かが狂い出すのです。ほんとにそうなのだろうか、と読者は読み進めます。というのも、家族・家庭の会話が皆無なのですから…。いわば、この作品は充からの小説であるでしょう。充の世界が壊された、ゆえに自分の世界をつくるのだけれど、それが狂気の世界となってしまった、というのが、救いようのない『無罪』なのだと思います。充の「自我」の欠如はいかんとも解決のしようがありません。こういった若者が多い現在を考えると、正に問題作です。
この作品は後篇を加えると100枚くらいの枚数になるそうです。ですから、次号の「さくさく」には70枚前後の続編が掲載されます。楽しみです。導入にあたり顔をそろえた、といったところでしょうか。一人称の小説で、僕である木下一郎と父の修三、それから栗原美影さんの、三人を登場させています。もう一人、亡くなった母も何らかの役割を果たすのでしょう。僕は栗嫌いです。一方の栗原美影さんは大の栗好き、と対照的な二人です。栗嫌いの僕に理由があるように、栗好きの美影さんにも、その理由があるのでしょう。好きと嫌いでどのようなシーソーゲームを演じるのか、見物です。作者の作品はこれまで、現実→内面→幻想、という道筋をたどることが多かったのですけれど、今回の作品は地に足の着いた流れの文章で、しかもリズム感があり、人物を描くのに適した書き方をしています。美影さんとは何者か、楽しみにしています。
童話とありますが、分類をするならば児童文学になるのかもしれません。さて、発想の面白い作品です。強男という人物自体も、作者ならではの発想です。強男は、けっして強い子ども、四年生ではありません。もちろん、スポーツ万能とありますから、腕力は強いのでしょう。けれども作品に書かれているように、学校から帰れば一人ぼっちなのです。つまり孤独なのです。その強男は、幽霊が出るというビルに探検をするのです。強男が、その名の通りの強男になるための試金石でしょう。小学校四年生ということを考えれば、自我の芽生え、の時期に当たります。その探検・冒険はいかにです。探検の果実は大きいです。幽霊との対話は、強男に様々なことを悟らせます。と同時に、歌の楽しさも味わったのではないでしょうか。歌は心でもあります。「ありがとう」でつなぐ他者との関係を理解できた強男は、奈々夫君をはじめ、たくさんの友達を得るのです。