毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
『赤後家殺人事件』カーター・ディクスン、と『無菌病棟より愛をこめて』加納朋子の、二つの作品についての雑記で、いくぶん読書感想文にかかった風な雑記になっていて、これまでの作者の「雑記」とは趣を変えています。これまでの主観描写の作品と今回の客観描写の作品では、こんな風に異なる感じを受け取れるものかと感じたしだいです。なんとなくブログ風の書き方ですね。客観描写で作品を紹介するのだけれど、それを主観で引き継いでいて、作品を読んでいない読者にとってはわかりづらいところがありました。まあ、興味を持ったら読んでください、との紹介みたいなものなのでしょう。作品とはまったくちがうのでしょうが、「部屋が人を殺せるか」は面白いです。殺せます。なにしろ空間に閉じ込められた人間は、時間経過とともに死ぬのですから……。と、変に想像をしてみました。「赤後家」の言葉も気になりました。
かなり難しい作品です。「朝の国」の象徴がこの作品を成立せしめているでしょう。誤読を恐れずに述べると、彼=私なのではないでしょうか。私は夜、不覚になるまで酔い潰れ、朝の光の中で目覚めるのですが、同時に石のごとくに固まった己を見ることにもなります。彼→私でもあれば、私→彼でもあるのです。探偵のWは、私あるいは彼の内面の自己省察を擬人化したものです。なおL医師は自己愛の、同じく擬人化されたもので、総じて虚構の世界です。Wは私と彼の融合を、LはLoveの記号的な目印です。このように読み説くと、よくできた作品だということがわかります。ほとんど完成された一品でしょう。私が私を抱き締めなければならない絶望とは何か。こころの光でなら見えるかもしれません。以前在籍していた会員が、朝は恐ろしい、と言ったことを記憶しています。そのことをふっと……。
高橋和巳を好きな作者だけあって、リアリズム的な抒情に富む文体で、多分に内面の決意のごときものを現わしているだろう小説です。三人称小説なのに、どこか私小説の雰囲気を漂わせている不思議な感覚もします。「彼(かれ)」という響にこだわっているような感じがしないでもなく、彫像的な人物像を彫り込み、「向こう側」との対比、あるいはそこへの投げ込み、が意図としてあるのかもしれません。この掲載作品は、作者が書こうとしていることの導入部に当たり、この後から本編的な展開になるのでしょう。風景描写は秀逸です。新婚夫婦にしては禁欲的すぎるところが気になります。もしかすると、私小説的なリアリズムにこだわりすぎているのかもしれません。いっそのこと独身にした方がよいと思いました。とは言え、作品の手直しは書き上がってからでもよいので、まずは完成させることが優先されます。
おもしろい趣向の作品です。「十話」としているのは、夏目漱石の『夢十夜』にちなんだ発想なのでしょうか。それぞれの「話」が死を囲んでの展開になっています。まず第一話。四万十川を三途の川に見立てたところでのお話だと思いました。「秋の彼岸の墓参りを済ませて、今ここにいる」わけです。「透明な水底に吸い込まれるような感覚」になり、「……一歳の娘だ」と想起するのです。「私にはまだすべきことがあるんだ」はよくわかりませんでしたが、「対岸に川えび料理」は、対岸=彼岸、川えび=一歳の娘、と読みました。末尾に再び出てくる「精一杯輝かせるためになすべきこと」は、やっぱりわかりませんでした。だけれど、「四万十川」の清流の感じが三途の川を彷彿とさせて、とても味わいのある一話でした。第三話「富岳一景」は、私も富士山で滑落した体験があるので、身に迫るお話でした。
構成がすばらしいと思いました。「私」は2664年の人類学と古代史の研究者です。その私が2064年の古代遺跡を訪れ、そこで2033年に起こった父親殺しの少年の玄夢と遭遇する設定になっています。私は過去へ、警察に追われた少年は未来へ、それが2064年なのです。かなり込み入った時間のズレがあり、それをどのように処理するかが、この作品の難しさだと思います。いくぶん、600年後の研究者である「私」の感覚が、どちらかというと2014年的で、十分にはSF小説に成り切らないところがあります。2064年だけを取っても、温暖化問題や人口問題はどうなったのか、繁栄しているのか、それとも衰退しているのか、作者の作品上の見解を知りたいです。もっとも、宙に浮いたかのごとき2064年を描き出し、そこに母と父と子の問題を提示したことは、とても人間の力を肯定しているようで好感します。
ほっとするような随筆、と言ったらよいのか、小説と言ったらよいのか、その両方を備えている作品で、楽しめました。蜜を吸う場面と、ままごと遊びの二つから成っています。小学校一年生の頃を思い出して表現していますが、その「思い出して」という現在からの視点を削除して記述したら、小説になります。物語を書かなければ小説にならないと、もしかすると作者は思っているのかもしれませんが、要は書き方なのであって、自分が体験したものでも小説になるのです。花の蜜を吸う行為を理解する、つまり吸うと吹くの齟齬はとても面白いです。もう少し高学年になってする逆上りができるかできないかみたいなものかもしれません。作者が作品に乗ってきたときの文章運びはうまいと思いました。表現にこだわってみたり、自然体で書いてみたり、何度も試行錯誤をしていくと、きっと小説になります。
新しい会員にとって、この作品のイメージをつかむのは難しいだろうと思うので、タイトルに即して私なりのコメントをします。「ぼくたちのひみつきち」とは、何かです。ある時期のこどもたちの魂の拠り所、と言ったら大袈裟になるかもしれませんが、おそらくそうしたことに準じた何かなのです。戦争を体験した世代の古い価値観と、戦後の民主主義が立ち上がってくる時期に成長した者たちの葛藤が、作品の背景にあるのだと思います。もちろん、そうした固い理念は極力排除した作品になっています。作品中には敵もいれば味方もいる、悪いことも良いことも起こります。どんなに傷ついても、共有できる「ひみつきち」を持っているという希望は、あの時代を生きた作者からの、現代の子供たちへの熱いメッセージなのではないでしょうか。一作、一作ごとに、バトンがうまく渡るかどうか、見守りましょう。