2014年10月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:10月19日(日)
  • 例会出席者:16名

読書雑記 30

 堀江敏幸『郊外へ』、何とも奇妙な小説ともエッセイともつかない作品から、「越境」的諸々の感概、展開がなされていきます。小山田浩子と川上弘美の対談において、短編の積み重ねが長編になるとのアドバイス的な紹介。続いて平野啓一郎と伊坂幸太郎の対談では、純文学とエンターテイメントの間で本質的な違いがないと紹介されています。「スタイルの差は表向きのものでしかない」と結ぶのです。その理由を「本当に面白いもの…」で根拠付けています。なんとなく、純文学とエンターテイメント小説の論争が、遠い昔のような気がします。現実に許容される文学と、現実を超えていく文学との差はどうなのだろうかと、どうしても考えてしまいます。純文学とエンタメが「なかよしこよし」というのも、ちょっと気持わるいのでは……。論争するくらいが健全なのではないかと、私なら考えます。

こうじや

 名前をそのまま商店名にした店は、昨今、姿を消しつつあります。その分だけ、この作品は「時代」を現わしてよいタイトルになっています。仕掛けもあります。ガラス戸を開けると「こう」と「じや」になり、閉めると「こうじや」になるのです。この開け閉めが商店の命でもあります。作品の開け閉めの「開け」の導入部は圧巻です。完全な三人称の文体で、作品の始まりを飾ります。この三人称の書き方をもっと活用、要所々々で使用すると作品全体の構成上好ましいと思います。それにしても導入部の書き方は、作者の掴んだ新しい境地でしょう。田舎のよさも、田舎のどうしようもない粘っこさも、存分に表現しています。エレンさんが嫌われた事情は、文化の違いなのですが、これは昔も今もと変りなく、現代になっても人は気がつくこともしていません。それだけに『こうじや』は存在感があります。

コスモス

 冒頭の文章は固いなと感じましたが、それに続く行アケしたところでの描写は、敷き詰められた桜の花弁→山桃の実→コスモスの花と、記憶を一枚一枚と剥いで見せてうまいと思いました。特に、山桃の実を手の中でつぶした「赤い色」を過去から現実に呼び戻し、コスモスの花につなげ、その色の中にみいちゃんを連想するあたりは、初恋の切なさがよく現われています。手の中の赤い実って、記憶の底にある、みいちゃんのお乳だったのでしょうか。この後になると客観性が増し、みいちゃんの結婚と失踪についての事柄が書かれ、最後はみいちゃんの死を象徴させて終わっています。氷結したコスモスの花としてです。この作品は、平凡なサラリーマン、多感な初恋、推理小説の三部構造になっています。この構造が分離していますが、そこに相互性が表現されるとコスモス(宇宙)的な人間が追及されるでしょう。

蟷螂の斧

 おもしろい趣向の作品です。形は三人称なのですけれど、会話文などは一人称的で、視点がどこにあるのかわからない、いくぶんズレのある書き方になっています。穿った見方をすれば、カマキリ視点なのかもしれません。カマキリは交尾を済ませると、メスがオスを食べてしまいます。それがカマキリの宿命であります。身勝手な男で、身勝手に振舞っていますが、便利に交際していたつもりが、おそらく妊娠という事態に、どうにも逃れようのない情況に囚われてしまうのが、この作品なのではないでしょうか。その顛末の一部始終を網戸にへばりついたカマキリが見ていたのです。そのように理解すると、とても手の込んだ作品なのだと改めて思われます。けっこうオシャレな文体に、ホタルだとかカエルが出てきていいですね。ホタルは希望、カエルは「帰る」でしょうか。

あの日をもう一度

 恋人の死という、乗り越えようとしても乗り越えられない情況を設定しての創作作品です。由真が死んでしまったという他に、優は由真を、あるいは自分を捉えられないのです。そのことが冒頭の書き出しで書かれています。人間の苦悩というものは、おそらくこの論理の通りなのでしょう。解決のしようがないのです。円球化して、蛇が自分の尾っぽを呑み込むみたいに、堂々巡りする以外にないのです。それを作者は詩的な表現でチャレンジしています。幻想空間が現われ、一年前の悲劇的な由真の死に、一年後の今、コミカルな言葉・声が聞こえてくるのです。悲劇を呑み込んで喜劇を迎えられたなら幸いです。もっとも悲劇のリフレインは避けられないでしょう。時間の効用が少しずつ訪れ、一年…三年と待つほかありません。恋愛の形を見つめる目、純粋さを作品という形にしています。

明治文壇の群像 その五

 回を重ねるごとに面白さが増してきて、次号を早く読みたいと思わせてくれる作品です。なにやら、自分が中毒患者になったような気分になります。今号は「泉鏡太郎、世に出る」「不遇の花袋、不遇の多摩川渓谷へ」「多摩川紀行以後の花袋」「国木田独歩の恋」の四章から成っています。特に面白いと感じたのは、「不遇の花袋、不遇の多摩川渓谷へ」の章でした。山や渓谷に関する紀行文学作家である作者の本領発揮といったところでしょうか。この手のものになると力量をいかんなく発揮して、読ませてくれます。それに、田山花袋は自然主義文学の開祖みたいな人ですから、この章は落とせないと作者は踏んだのでしょう。しかも、花袋と対を成す国木田独歩を次章で取り上げているのも理に適ったことです。明治文壇の作家たちを立体的に紹介してくれるこの作品は、小説を考える上でも重要です。

彼方のうず潮

 仏壇に飾ってある父と秋代(継母)と実母と祖母の写真、供えたカサブランカの白い花の強い香りの中にいると、昔のことがうず潮のように頭の中に浮かんでくるのです。蕾を三つもつけて、重さを支え切れなくなった白いカサブランカがまるで継母の秋代を象徴するかのように……。八十歳でなくなった秋代に関する記憶のあれこれは、現在の江津子よりも歳の若い秋代のもので、以前だとわからなかったことがわかることとして回想されるのです。若くして後家となった秋代の性欲、嫉妬心を、秋代と江津子と二人の妹の、残された四人家族で過ごした過去に問いかけるのです。その諸々に対して、「ありがとう」の言葉を継母である秋代に手向けられたのは、幸いな結末です。回想を回想として書くだけではなく、その回想に中に踏み込んで表現できると、よりよい作品に仕上がると思いました。