2014年9月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:9月21日(日)
  • 例会出席者:8名

長谷部君

 すがすがしい小説です。登場する人物を見る目が確かで、表現も人物に寄り添ってなされています。長谷部君、香川君、恵里ちゃん、それに作品の視点人物である私こと「さっちゃん」。この仲良し四人組の缶けり遊びを懐かしく点描した作品ですが、どことなく純然たる子供時代の終わりを象徴しているように感じられ、「長谷部君」をくっきりと記憶の向こうから呼び戻し刻んだ作品です。もしも私が男だったら、完全無欠な長谷部君と喧嘩をしてみたかった、との思いは、女ごころそのものでしょう。作品は回想として書かれています。これまで作者は随筆を書かれてきたので、その流れで書かれたのでしょう。少し長い作品に挑戦するためには、作品に現在時点をとり、そこから多層な時間を織り込むような書き方をすると、作品に厚みが出てきます。一歩ずつ、前に進んでいってください。

我が家のスワン 3

 一回目のスワンの登場、二回目における正式な家族になるためのセレモニー、三回にして早くもスワンの自律・自立が披露されています。スワンにとって家は居場所ですが、その居場所だけでは足りないもので、隣りご近所といったものが必要です。すなわち仲間のいる縄張りです。縄張りの外には、別のグループの縄張りがあり、人間によく似た社会になっています。スワンに友達ができました。与太郎です。与太郎には妻があり、オリーブです。こちらも人間とよく似た、できちゃった婚らしく、せちがらいなりゆきに、「しらす」の大判振る舞いで助け合うのです。男義を発揮したスワンは男が立ったかもしれませんが、その手助けをした主人たる私は、サテサテ…です。合評会で、一つの短いエピソードだけでは物足りない、との意見がありました。奥さんや娘さんの出番も読みたいとの要望もありました。

短歌・暮の病室…ほか

 作者の短歌にはじめて接した新会員の方が、作者は相当な研鑽をつまれた人なのではないか、と感想を述べられました。その言葉を伺いながら作者のことを、風景の美食家、と評した方のことをふっと思い出しました。なかなか味わいの深い賛辞だったんだなと懐かしいです。良い意味・わるい意味、ひっくるめての歌仲間のエールだったのでしょう。その作者が身の回りの日常を歌に詠みはじめた時、心が生まれたての赤ん坊のように率直になったと感じました。ありのままの歌になったのです。しかも、飾りを取り払い、その取り払った向こうになおも美の感動があるのです。金魚でも、ガマガエルでも、野良猫でも、生あるものの言葉の美しさを作者は伝えます。「夕映えにゆらゆら揺るる八分咲きの白木蓮に明日を待つこころ」の一首は、多感な一瞬、感謝の歌と読みました。

ゴスペルホテル

 遊び心に満ちた作品に感じました。意図的ではないのかもしれませんが、「ゴスペル」は「誤スペル」に、「五階」は「誤解」と、ゴロが合って妙にリズムがとれます。作品には、双子の兄弟と、同じく双子の姉妹が登場し、相互に結婚しています。弟と妹の夫婦は幸せな家庭を築き、片や、兄と姉の夫婦は破局しているのです。それは五年前のことで、その五年前に進行した時間が、今度はまるで逆回りのように「もどり」始めるのです。五年前のゴスペルホテルの五階と、五年後のゴスペルホテルの五階は、まるでクロスした時間であるかのようです。P29下段の「自分がどこかに還るところを見ているようで……」の箇所は、なんだか鏡の中の世界と現実の世界の双方が存在しているかのようでハッとさせられました。一点だけ理解できなかったのは、巻瀬が妻に暴力を振った理由ですが、どうなのでしょう。

魂の存在と不滅性

 かなり難しいです。冒頭に心身並行論なる哲学が登場します。これは、脳と精神の現象は並行的な対応関係を持っている、との説です。小林秀雄から、小林秀雄が影響を受けたベルグソンに及び、ベルグソンの「心身並行の関係には、観念論と実在論をいったりきたりする矛盾が含まれており、哲学の錯綜が生じている」で一旦は休止するのですが、脳の個別的な究明、ブラナリアの観察等を経て、論は記憶の担い手である「魂」に飛躍して、魂の存在と不滅性の証明に至る論考です。魂の不滅は宗教の世界では当たり前に言われていますし、三島由紀夫などは美化的に捉えるのでしょう。その魂を三島由紀夫は「上・中・下」のランクをつけているように感じられます。なかなか「魂」を本質論で論じることは難しいようです。このような哲学的な作品は固まった頭を柔らかくするためにも、とても有用だと思います。

二重惑星(二)

 最初はどのような作品なのか見当もつきませんでしたが、今回になり、作品の宇宙観というか世界観みたいものが少しわかるような気がします。P229下段「それは、虫ではなかった。正確には虫かもしれないが」は、行アケされた回想の部分、弟との虫取りをした記憶を引いての現在描写になっています。ロウダー星人は虫なのです。また、敵であるジキ星人も虫なのです。それが何か、と考えたとき、タイトルの「二重惑星」の「二重」に思いが至ります。二重とは空間の二重性、及び時間の二重性であるかもしれないと……。空間と時間の二重性が可能となると、ハチャメチャな世界、SFの世界が口を開きます。それにしても、ロウダー星人の血液を人間に輸血して大丈夫なのだろうかと戸惑いますが、もしかすると、そのように生きなければ、人間は宇宙に出ることはできないのかもしれません。

梅の咲く家

 凝った作りの作品です。四十年も前に見た映画が、図書館で上映されることを知り観に行く、という小説です。現在の「駒本」の情況、以前の少年だった頃の駒本、記憶にある映画と今見る映画を勘案しながら、映画が語られ、また駒本自身の四十年が透けて見えるように展開していきます。少年駒本が見た憧れの美しい少女は、守ってやりたい健気な少女になって登場してきます。上映終了後、外に出ると夜になっていました。そこでパニック障害に囚われてしまいます。四十年前の自分と現在の自分。夜の闇は、そのいずれにも安住させてくれず、確かな地面を踏めないのです。この辺りから視点が客観的になり、駒本は小説の主人公として描かれていきます。目指すは「梅の咲く家」です。呆気ない駒本の死が、読者を作品の余韻の中に置き去りにして終わります。シュールな終わり方でしょう。