2014年8月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:8月17日(日)
  • 例会出席者:17名

煙が目にしみる

 とても手慣れた作品です。随筆を書くコツみたいなものを作者はつかんできているように思います。心の出入り、主観と客観が微妙に転換する様を、自由に操っています。このような文章ですと、作者も書くのが楽しく、読む方も安心して読めます。合評会で評判になったのは「指が、唇が忘れていない」の章でした。来客があり、雑談に移り、自分の禁煙自慢をしているさ中に、無意識に相手のタバコの吸い差しを指に挟み、唇に持って行こうとした……。ここの描写は圧巻で、これは小説だなと好評でした。また「犬とタバコと香水」も、なんとなく映画のタイトルにあるような感じがして、しっかりした、どこか悲しいドラマがあります。なにか一つの信念に突き進むと、いろいろと不幸を招いてしまうようです。喫煙者の私としては、できるだけ迷惑はかけまいと…、世相が目にしみます。

一週間

 カミュの『異邦人』を思わせる冒頭。「今日、ママンが死んだ。僕のせいではない」、『異邦人』はこんな書き出しになっていたと記憶しています。そこを「死んでいたんだ」と、この作品のベクトルをとります。テーマとしての引き籠りを切開していくのです。詳しくはないのですが、引き籠りって日本的な現象のように感じます。教育で個人の自由は教えるけれど、それはどこか他者の不在した個人で、社会の規範に包摂された個人の自由でしかないような気がします。社会に居場所をなくした個人は、引き籠りとなるのでは……。作品では母の遺体を海に沈めますが、同時に自分をも海に流したのかもしれません。旅に出かけるとは、その行為なのだと思います。そこで他者との出会いがあり、7日目に母が浮かんできたように、僕が僕になることが出来たのではないでしょうか。作者の新たな作風を感じました

切り火

 作者の新境地的を感じさせる作品です。これまで、捕り物小説と剣豪小説の二本立てで創作してきましたが、今回はその二つの趣を融合させているのです。武士道と、江戸情緒の二つの味わいを楽しませてくれます。欲張った分だけ、双方において書き足りない部分があるので、この後も作品の完成に向けて手を入れられることを望みます。甚七郎が三人を切ったといいますが、その場面も必要な気がしますし、その後、家老と談判したとありますが、その話合いの模様、岡っ引き側では、なにゆえに捕らえるのか納得した理由が、もう少し書かれるとよいと思いました。岡っ引きに「大工の頭・留七」は、江戸での技術職の花形であるのですから、ありえないのでは……。「おこま」はいくぶん泣き過ぎだと思いました。それにしても、作品にリアリティがあり、まさに新境地を拓いた作品です。

『雨の日丸』に乗って

 小説の形において、非常に意欲的です。人間を人間に擬人化すると、このような作品になるのかもしれません。読み出しは、雪雄と桐ちゃんとナルミの三角関係の作品との印象を持ちますが、現実であるところの土地の様々な描写、「雨の日丸」は島の頂上にある居酒屋であること、「遠くの紅っぽい崖と、山の緑で、海の両端が閉じられている」など、とても不思議な現実で、ふっと思うと、まるでナルミの描いている絵の中の風景に入りこんだかのような面持ちにさせられます。出口のない世界です。ロマンと幻想が唯一の出口で、同時に文学の入口なのだと「頑張っている作品」なのかもしれません。でもこの長さだと、肝腎のナルミのことも、雪雄のことも書かれずじまいの感が残ってしまいます……。ぜひとも100枚にも、200枚にもして、この作品世界を完成させてください。

白い萩

 いかにも抒情性に富んでいる作品です。細部を度外視して作品を見ると、生と死、男と女、男と男、その命にまつわる悲喜交々、喧騒を、入院を通して描いています。ポリープの破裂で昏睡状態になった香田浩治は一週間ぶりに意識を取り戻し、とりあえず、静かな入院生活を願うのですが、それは「あっさり裏切られ」ます。その犯人である当人を、咳をするから「コンさん」と記号化し、他者のごとき迷惑な男との入院生活のヒトコマを表現していきます。やがて、見えなかった現実が見えて来ると、自分の見当違いにおどろきます。横柄で威張り散らす男であった「コンさん」は、いかにも紳士然とした品のある老人なのですから…。死の病室に移った「コンさん」と、柔順な奥さんだとばかり思っていた夫人に見た明るい顔。 道という人生に咲く花のごとく、生き死ぬ、その生を見つめる作品だと思いました。

どうぞ私もお仲間に

 小説のような随筆です。小説と随筆の違いは何か、大変難しいのですが、読者に丁寧なのが随筆で、小説は作品に丁寧なのでないか、なんて勝手に思い巡らしています。ユーモアたっぷりの作品なのですが、注目したのは、ダイエットをするのに「足を洗う」と表現しているところです。若い女性が、もしかすると女子高生が、どんな自分の世界を持ち、そこで現実に対処しているのか、「超おもしろいな」と感じました。若者は若者で、しっかりしているのだろうとは思いますが…。この若い女性に興味を持った作者の視点がよいですね。しかも作者は、「人には遺伝だとか、骨組みというのがあるから、なよなよとした体になろうとしても、なれない人がいても当然だ」と悟っているのですから、矛盾といえば矛盾なのですが、「お仲間に」になって私もスマートに……、は女性ならではの願望を突いて見事です。

文緒さん

 一つのお話を書くことにおいて、作者は抜群の筆力を持っています。あとは、構成力とか物語の構造をどのようにするか、そういったある程度長い作品を書く上での方法論、外在化する力を身につけることが課題なのかと思っています。花火見物を物干し場からします。そこには、わたし、文緒さん、母、父、四人の定位置があります。これは微妙な色合いの家族構成なわけです。ここに、それぞれの視点があったなら、と思います。三人称で、奈津美の一人称視点からだけですと、なかなか「文緒さん」の深部まで表現することはできません。もっとも、花火の夜の懐かしい家族の思い出を書くというなら、このままでも十分です。でも、この作品は、その先まで読者に想像させているところがあるのですから、そこをも書き切るには、工夫と長さが必要になってきます。文緒さんの美しさと潔きは花火のようです。