毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
冒頭にある宮崎駿監督作品『風立ちぬ』は、作者一押しの作品なのだと推測します。観ていないのでなんとも言えませんが、考えさせる映画であることは確かでしょう。「本作のモチーフは、純粋な恋愛観であり、職業観である」と、作者は括っています。ここのところが微妙で、それだけではすまないものがあるのでは? 例えば、今回も登場し、前回も登場したハンナ・アーレントのナチスの戦争犯罪の解明とか、アインシュタインにおける原子爆弾製造への加担、といった負の問題にも直面します。ハンナ・アーレントやアインシュタインの苦渋は、「他者を見る」ことによってなされます。果たして、宮崎駿監督は他者を見る目を映画に反映させているのだろうか。コマーシャル・フィルムでは、そこのところが曖昧でわかりませんでした。それゆえにこそ、観ておくべき映画だったのかもしれません。 P151下段にある『最愛の大地』の文中に、「国連軍も動き出す」とありますが、これは「NATO軍」のことだと思います。P148下段の『映画「立候補」』に登場する、外山恒一さんのブリキ彫像の個展を今年見ました。この方は、1970年代頃からの活動家なのですね。
楽しく作品を書いているなあ、と共感しながら読みました。冒頭に、「華麗なる白鳥」と「我が家の愛猫」と不等式を立て、スワンのスワンなることを強調して作品に入っていきます。この入り方のためか、あかねとサブローへのインタビューはまるで外交交渉であるかのようにシビアです。国益ではなく猫益を確立せんがために、あかねもサブローも必死です。なるほど、色々と注文するのも親が子に持つ愛情ゆえのことなのだと感じられ、いかにもほほえましいです。あかねの、スワンの美点は自分の資質を受け継いだもので、スワンの欠点は夫であるサブローから引き継がれてしまったものだ、と主張するあたり、どことなく「我が家」の夫婦の力関係が転写されてしまっているようで、面白いです。あかねとサブローの通訳高橋さんの奥さんの巻、というのも、この章がちゃんとした儀式なのだと思わせて、筋が通っています。こうしてスワンは家族になっていくのですね。白鳥ではない、猫であるスワン、しかも猫ではあっても人間と同等の家族にです。作者は動物の擬人化された世界を描くことに優れていますが、この作品は動物と人間の世界で、さて、次の章ではいかにと楽しみです。
日本文学にとって、世界文学に対して誇れるのは「私小説」だけだ、と読んだことがあります。片や、村上春樹などは、日本文学はベタベタしていて気持ち悪い、と書いています。もっとも、最近では村上春樹も私小説に一定の理解を示しているようです。こうなってくると私小説とは何かですが、それらに応える評論もいくつかあるらしいのです。残念ながら読んでいませんので、なんとも言えませんが…。一般的にいいますと、身の回りのことを書くということでしょうか。日常の出来事はたいしたことありませんから、そこで注目されるのは、そこにいる「私」がどのように表現されているか、ということになります。この一点なのですが、この一点からもいろいろな表現方法が派生してきます。一口に私小説といっても様々なのです。
別の角度から『城の崎にて』について述べます。この作品は何度も雑誌に掲載され、その度に書きなおされ、私たちの目にする作品になったそうです。端的には、単なる電車事故だったものを、なにかしら自殺未遂に仮構させたあたりでしようか。
不思議な作品です。SF小説なのに、どことなくレトロな趣もあり、読み手の時間軸を微妙に揺さぶります。このことを意図して書かれたのだとすると、タイトルの「二重惑星」とも通じるものがあるでしょう。このような感じの作品はモダニズム小説でもあります。もっとも、作者は真摯にSF小説として書かれたのだろうと思いますが…。「青海星」の海への調査隊は、限界深度を超えてしまい危機的状況に陥ってしまいます。作品は、そうした状況から始まり、それに至る背景描写をした後、再び現状の報告を本部と交わすのです。海の底へ、底へと沈んで行くのですが、沈んでいった結果が奇妙なことになります。なんと、空を落ちて行っているのです。そして再び海へと落ちるのです。元の星なのか、それとも別の星、別の宇宙なのか不明です。宇宙の秘密みたいなところで作品は終わっていて、続編があるのかどうか、そこのところは作者次第であります。読者としては、この後の奇想天外な展開を望んでいます。「二重惑星」の何たるかに整合性を持たせるのは、かなりな難問だと思いますが、ぜひともチャレンジしていただきたいものです。
三色パンみたいに、楽しみがいくつも盛り込まれた作品だと思いました。まずは小説としての、「新 雪国」の味わい。次いで、紀行文としての旅情。作中に挿入されている『秘境秋山郷 平家落人伝説の解明の旅』などは、重層化された道筋があるように思え、妙にわくわくさせられるのです。呆気なく本文は結末を迎えてしまうのですが、ユキとの夢幻の如き一夜と、駅舎へと向かう帰路の風景描写は、川端康成『雪国』と作者の『新雪国』の時間が融合したかのような錯覚を覚えさせ、みごとな描写だと思いました。なんとなく川端康成への敬意が込められた終わり方になっています。また、「あとがき」で作者の本領を発揮しているでしょう。「気にいった風景は私に創作の刺激をもたらし、気持を新鮮にする」などは、確かに、いかにも川端康成らしい一文です。川端の才能は、常人では見過ごしてしまう何でもないところに美を見つけるところにあります。美が現われるのを待ちもすれば、旅に行き、つまり迎えに行きもするのが川端康成でしょう。語らず仕舞いになってしまったユキですが、読者としては、せめて春の雪のごとく、温かさに包まれて消えていったものと理解したいです。もしかして、あの一夜はその思いがあっての一夜だったのでしょうか。