2014年6月の例会報告

毎月、会長が報告して下さる例会報告です。

  • 日時:6月22日(日)
  • 例会出席者:10名

詩3篇

 詩3篇を見事な順序で披露しています。「ぼうきょう」は、もしかすると〈望郷〉かもしれず、また、〈忘郷〉かもしれないのです。望郷も忘郷も意味の脱落したひらがな「ぼうきょう」と遠く、しかも日常です。そこで私は書物の世界「旅と書物」に頁をめくり、失ったもの、あるいは未知のものとの出会いを求め、次々と反復するのです。3篇目の「光景」は旅のたどり着いた先の夢のような詩だと感じました。詩人の見る光景で、難解なところは現代詩を彷彿とさせるでしょう。象徴的な手法がふんだんに盛り込まれ、ある水準に達している作品になっています。一行だけ指摘しますと、「そしてそこに焼かれた残響の吠え立てる声を」は、やや混乱した表現に感じました。順接でおもしろくないかもしれませんが、「……焼かれた吠え立てる声の残響を」の方が意味がとおるのでは……。「そしてそこに」といった言葉は、散文的になってしまいますので、工夫するとよいですよ。目に見えて上達しています。

フレンド 3

 読んでいて、とても後味のよい作品です。友達をつくろう、という目標を立て、六か月と期限を設けます。フラワーアレンジメント、簿記学校と、外部にチャレンジしますが、うまくいきません。しかし、うまくいかないなりに、そこで何か大事なもののいくつかを学ぶのですから、もしかすると大成功なのかもしれません。江口さん、成瀬さんという身近な同僚を得ることもできました。事故死した恵子とインコを登場させたのは、作品に深みを与えているでしょう。インコの死を手前味噌的に処理したようにも伺えますが、シールドを解除することができるようになった友美は、もはや「籠の鳥」ではないのです。〈インコ=友美〉だったものが、籠の外との心のつながりができたのです。この連載作品を書く過程で、作者は人生最良の新たな友を迎えられたそうで、まことにおめでとうございます。身の回りの静かな生活を素直に描写した作品って、とても癒されます。

科学と歴史

 冒頭に置かれた、「知る前と、知った後では世界が変わって見える。」の言葉は、かなり意味深です。「お日様が東の空からあがる」と一般には言ってしまいますが、果たして、天体物理学者もそのように感じるのだろうかと、よく考えます。地動説が正しいとは思いながら、その地動説に則った自然感覚がなかなかできません。頭の中は、依然、天動説になっているのです。矛盾を含みながら、確かに知る前と後では、不可逆性の現実を実感します。最初に書かれている「酸化還元反応」は難しかったです。もっとも、勉強になりました。後半に展開されている歴史の問題となりますと、前半とは異なった難しさがあると感じました。理科系的な問題は専門家にお任せなのですが、文系となると、各自いろいろな異論を持っているからです。各自が考えて、自分の歴史観を持つべきだという主張は、歓迎です。作者はベルグソンに興味を持っているそうです。「さくさく」に哲学が掲載されるって面白いですね。

送る言葉

 すごい作品だな、と思いました。作品の中に作者の痕跡がなく、まるごと小説になっています。七ツ橋ピクチャーのスタジオが建て替えとなるので、現在のスタジオでの最後の映画となる「カイダン野郎」のドキュメント的なホームページ掲載記事の依頼が、弘子に舞い込みます。だとすると、三人称で書く一人称視点の作品かなと読み進んでいったのですが、それが途中からものの見事に覆ってしまうのです。視点人物であった弘子は、いつの間にか、受け手に回ってしまうのです。監督である舛沢、助監督の折田、俳優、スタッフ、それらの現実が爆発し新たな現実をつくるように、この作品は破壊的に構築されます。爆発した破片が至るところに顔を見せ、その一つに、連合赤軍といった合評もありました。舛沢監督って、もしかすると若松コウジ(?)のことかなと思いました。主体を固体化せずに、「ゆらぎ」のように表現するのは、まだ日本には根付いていない現代文学の作法でしょう。力作です。

文緒さん

 手慣れた描写で、読者をふわっと作品の世界に誘ってくれます。「嵩ばらない今の暮らし」の表現は、今現在の「わたし」の生活を表わすととともに、五十半ばになるまでの、嵩張った暮らし、あるいは何もかも失った「わたし」をそれとなく匂わせているでしょう。それとともに、読者に「嵩ばらない暮らし」とはどんなものかといったことも考えさせているのです。「わたし」は、いつものようにいつもの「小売店が肩を寄せ合う一角」で、夕食の食材を当たっています。そこで偶然、きれいなひとを目がとらえます。文緒さん……。唐突に文緒さんの面影を見てしまうのです。そこで作品は「つづく」となるのですが、なかなかうまい導入に構成されています。身の回りにある事物や事柄を細かく描写すると、ありきたりの日常に潜む深い意味が顔を覗かせます。そういうことを作者はよく心得ているのです。「つづき」の作品は書きあがっているそうですので、楽しみです。

明治文壇の群像 その四

 回を重ねるごとに、この「明治文壇の群像」なる作品の表現構造の魅力に引き込まれてしまいます。実に面白いです。文学史なのか評論なのか、ルポなのか、はたまた、形の変わった小説なのか、判然とはしません。こうした表現方法は作者の発明によるものなのでしょう。今回は、泉鏡花と田山花袋でした。泉鏡花のペンネームは尾崎紅葉の発案だとのことですが、「水に映る月」から「鏡に映る花」とつけたように、美しいものを見出す才能を持つ鏡花にとっては、またとないペンネームを紅葉はつけたものです。鏡花もすごいが紅葉も鋭い、と思いました。鏡花の行き違いの「恋」の哀しさは圧巻でした。また、田山花袋のデビュー作、「小詩人」の内容と、花袋の恋の同時進行は、作家たるものの悲喜交々を感じさせて、作家の資質みたいなものを描写しているのだと思いました。私はシリーズの最初、尾崎紅葉に好感はしていませんでしたが、このごろ、やはり大作家なんだと思うようになりました。