毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
これまで作者は感想文だとか書評といった形で、いろいろなジャンルの作品に対して、新旧に拘わらない「想い」を紹介してきました。その一般的な形式にあきたらなくなったのか、独自な形を模索し、それが〈読書街を散歩すれば〉といった表題になったような気がします。本屋街とか古本屋街という言葉はありますが、「読書街」なる言葉は、作者の造語だと思われます。作者の頭の中にある、読書を通した世界、それが読書街なのです。作者の読書をするワクワク感みたいなものが、肌で感じられるコーナーでしょう。さて、内容ですが、作者は読者が、作品を読んでいるか、または知っているということを、どこか前提に書かれている節があり、読んでいなかったり知らなかったりすると、わかりづらくなっているかもしれません。この新しいスタイルは初めてなのですから、いろいろと工夫しながら、作者の独自な「読書紹介」のコーナーに育っていくことを願っています。
かなり面白い作品です。面白いというのは作者がこのような、少し長い作品を書くようになり、また書いた作品がなにやら作者の深い考えが現われているのではないか、そんな感想を持たされるからです。1 、は圧巻でした。なんといっても、〈やった、やった、死んだぞやった〉の2行3連複が利いています。無理やり分析すれば、「やった、やった」は無意味な日常ということになりましょう。続く「死んだぞ」はある意味不協和音なのです。不協和音であっても「死んだぞ」≒「やった」で、「やった」と同様に無意味であるけれど、ちょっと変わっている、という程度のことでしょうか。さらに「死んだぞやった」の、「だ」を「で」に変換、「ぞ」の位置を末尾に置換させると、「死んでやったぞ」になります。「死んだぞやった」と「死んでやったぞ」は、何度も反復すると同じ音に響いてきます。こんな風に分析させられて、かなり面白かったです。《雑記》と記されていても、小品の構えを備えています。
連載、残すところあと一回となりました。人物像が彫り込められることによって、出島が日本と外国との縮図であることが鮮やかになってきました。しかも、登場人物にそれぞれ負の部分を抱えさせた描き方は、並々ならぬ構成になっている、との鋭い意見も出されました。文化と金と愛の激突するところ、まさしく「出島の蟻ども」であるでしょう。あと一回ですので、〈早矢〉のことに関してだけ…。もっとも〈早矢〉は最終章での出番は限られてしまいますね。〈早矢〉が登の回想を通してだけの登場なのが、ちょっと残念でした。作品上の現在だけではなく、三人称なのですから、いろいろと工夫されると、作品がより立体的になるのではないかと思いました。二次会で、この作品はエンターテイメントなのか純文学なのか、話し合いました。エンタメだとすると、純文学の色合いが濃く、純文学だとすると、サービス精神が網羅的な気もします。もっとも、これが作者の小説なのかもしれません。
読ませる作品です。読者が小説を楽しむ要素は、大まかに言えば三つあります。①には、文章です。②には、作品の展開及び構造です。③には、書かれたものを超えるところの余韻、あるいは作品が読者の思考の中に根付くことです。この作品は①、②、③に関してとてもうまく書かれています。冒頭の二行の文章など、祖母そのものをうまく表現しています。「百日紅」と表記したのは、百三歳まで生きた祖母への賛辞と供養の文章になっているでしょう。花としての百日紅は、手向けの花でもあります。しかも、「昭和最後の夏」と叙述し、明治・大正・昭和をさりげなく挿入しているのです。展開も、エピソード等を家族関係と密接に表現することで、ストーリーに乗せてくれます。余韻という意味では、合評会・二次会で話題になったのですが、さて、遺産相続はどうなったのだろうか、喧々諤々でした。明治・大正・昭和の時代を生きた祖母の精神(墓)を、読者たる私たちはちゃんと継承しなければ……。
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』に対する、〈新釈〉としての「新・蜘蛛の糸」です。このお話は最初アメリカの作家が書き、それを読んだドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の作中に取り入れ、そして芥川によって『蜘蛛の糸』となったのだそうです。そこにさらに新たな試みを施す作者の意気込みは大いに歓迎です。寓話という構造に、どことなく現在の日本、あるいは時代の抱えている困難を挿入させ、問うている作品だと感じました。いろいろとあるのですが、肝腎なところは、美蘭陀が蜘蛛の糸をはさみで切ってしまう、の部分がいかにも新しいです。しかも注意してみると、美蘭陀も羅磨陀も14歳だというところだと思います。寓話は、ある種の普遍を教え諭すお話なのですけれど、ここではその普遍を〈相対化した物語〉に再構成しているのです。極楽と地獄が住み分けをしていた時代は過ぎ去り、同居しているような現代、さて、この後、美蘭陀はどのように生きていくのでしょうか。
意味深な構想のもとに書かれた小説だと思いました。三人称の「彼」が視点人物となり書かれていますが、その彼を彼と見る人物はだれなのか、とてもひねった書かれかたをしているのです。〈水の恋人〉の恋人は「彼」で、「水」とは何かですが、幽霊と杉浦広海がその候補にあがってくるでしょう。そこのところは、なんとなく枚数不足の感じがして十分には書き切れていないように思いました。かってに解釈しますと、イラク戦争や東日本大震災を取材している彼と、まだ海の底に漂っているだろう人、それがマンションの階段の女なのかもしれません。つまり、彼と幽霊女は霊的に「恋人」関係で、このまま進むと破局しかないのですが、地下深くにあるプールの杉浦広海が登場することによって、何事もなく解決、浮かばれるのです。幽霊と広海と照重(彼)の魂の三角同盟(恋愛)が成就するのです。こんな読み方もできると思いました。女性なのに男の書き方がうまい、と合評会で評されました