毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
今回の「映画日記」は冒頭に、「批評の対象」という自己省察のような事柄が掲げられていて、おもしろいな、と思いました。論旨は、①「評者のための批評は不要だ」②「受け手のレベルは、映画評のとらえ方によって、見定めることができる」③「批評の対象は、映画だけではない。受け手自身も、批評されているのである」、の三段階構造になっています。この三段階の中で気になったのは、「受け手自身も、批評されている…」の箇所でした。「受け手」とは映画を観賞する者ではなく、「映画評を読む者」と捉えられるので、なんとなく試験問題を出されているのかな、みたいな緊張があります。一般的にいえば、作者と作品、作品と鑑賞者、鑑賞者と作者、それぞれ、さまざまなところで会話・対話が成立しなければ、消費社会の文字通り、消費されていくだけなのかなと思います。この冒頭は特に面白かったです。
エセーっぽくない作品、だという意見が出されました。確かに、書き方は小説のような印象を受けます。エセーだと、素直に作者の思い・思考を表現するのがもっぱらでしょう。作者視点は強くあるのに、カフェでの三組の母子と作者視点の間には、透明なガラスによって隔絶された乾いた世界が伺えます。嫌悪すべき母親ならば、魯迅が『狂人日記』で書いたような、「子供を救え!」となるべきところを、母親以上に嫌悪すべき人間になってしまうであろう子供を、なんら接近することなく見捨てるところがあります。もしかすると作者なりの警告であったり予見であったりするのかもしれません。そうだとすると現在、ここに書かれているような怖い社会に、すでに十分なっているでしょう。人間が壊れつつある、と私は感じています。作者の傷つきやすい主観が発する叫びがあるのかも……。
作者の歌を配置する構成の巧みさに感心します。「病院の内と外」の最初の三首は病院の内、その後の四首は外なのですが、その外にある作者を「内に包まれている私」のように歌いこんでいるところがあり、内→外(→内)の、自然を歌い込む歌心にはなみなみならぬ「生き方」を教授されます。「槐」の井上靖の固有名詞から、文学市場の有志で旅行した「日本現代詩歌文学館」での思い出を語り合いました。「風船バレー」での、香りから現われくる失われた時のユーモアたっぷりぶりは、お茶目な作者を彷彿とさせています。「ブランコ」では、ああ、このブランコは二つ並んでいるブランコなのだと情景を浮かばせました。蜻蛉は夫、蝶は作者、「♪夕焼け小やけ」が自ずと聞こえてきます。「トルファンの葱」は自戒させられます。ネギに自己を仮託して詠む家永蕗子は、世界と抱擁する一瞬を捉えて見事ですね。
かなり難解な作品です。いやー、ほんとに難しいです。もう少しやさしく書いていただけると、と要望があることはあります。そうした意見を聴きつつ、そこは作者なりの表現を追及するのが、まずは本道ですけれど。二部構成の作品、現実世界を編曲した第一部と、楽曲としてのエストラーダ・ブランカ(何のことかわからず、音楽なのだと自己推量)の世界の第二部です。そこに春・夏を第一部に、秋・冬を第二部に割り振り、「花嫁は胎児のまま」「花嫁は、めざめた」「もう夜が明ける」と、作品の時間を進めていきます。東の部屋、西の部屋と方位を張り、「私は蝉の軀」と、卑小なものを誇大に抽象化する面白さはユーモラスでさえあります。「純白の道」を死の世界と読んだ方がいました。私も似たりよったりで、雪女の誕生かも、と類推しました。現代を「光の白い闇」とハイデガーは表現したと聞いています。
ショートSFとなっていますが、SFに幾分ホラーを融合させての作品なのだと感じました。「母」のパートでは、未来の地球の世界を描いたあと、母の病気とクローンでの再生が、母と子の情愛として表現されています。作品の読ませどころは、主人公の洋介が十二歳の時にバス事故に遭い、それまでの記憶を失くしてしまうという箇所です。洋介もクローン人間だった、という秘密が内在しているのではないでしょうか。洋介が事故で死に、クローンとして再生した、それゆえに母は、その事故当時の三十一歳に再生し、洋介との母子関係を取り戻そうとするのです。「帰郷」は怖い話です。どのような顛末があったのか、アソウシズコと娘の夢恵子は、絶滅したかもしれない地球に帰郷するのです。そこで出迎えるのは、母のシズコによく似た女性でした。「お帰りなさい!」の言葉には感動します。
読み応え十分な作品でした。リアリズムの文章で、抒情を押さえた書かれかたに徹していると感じました。志穂子の切迫流産の危険を回避するための入院、子供・菜摘の育児、それに仕事と、現実の風が次から次へと貞次郎に押し寄せてくるのです。一つひとつの問題を貞次郎はクリアするのですが、菜摘と志穂子を守ることにより、自分を守ることになり、家庭というものの形が構築されていきます。文章の単調さは少し気になりました。回想場面とか、幻想の箇所でもリアリズムの文章のまま表現しているためかもしれません。場所によっては文体に工夫してみたらいかがでしょうか。そうすると猫のミィも膨らんできて、より存在感を示すと思います。なんといってもミィ、わたしの意味なのですから。この作品は作者が何度も手を入れたようすが伺える、読んでいて伝わってくる小説でした。
小説は何を書いてもよい、斬新な作品を書け、とよく言われました。期待に応えようと書くと、多くの反発を受けるばかりでした。読み手にわからないものは非難されるのだと知りました。昨年、「買いに煙草を行く」「和子」「西中学校剣道部万々歳」を書きましたが、三作品三様の感想をいただきびっくりしています。「買いに……」をよいという方は、「西中学校……」を同じ人が書いたとは思えない駄作だと酷評するのです。「西中学校……」をすばらしい作品だという方は、「買いに……」を無視します。おもしろいのは、「和子」は無難な作品なのか、女性の方達から指示され、それほどの反論もありませんでした。「小説教室」は初めての、二人の主人公を意識した作品です。もっともパートⅡを書くと、どうなるものかわかりませんが。読んでいただいたこと自体、ありがたいことです。