毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
どのように言ったらよいのか、戸惑う作品です。一口に言うなら、油絵具を塗りたくったような作品、とでも言えそうです。西洋絵画と何度も出てきます。そのことから変にピカソをイメージしてしまいました。ピカソはモデルがいないと絵が描けないそうで、でも描いた絵は美人のモデルと似ても似つかないシッチャカメッチャカの抽象画。ならモデルなんて必要ないのではないかと思うのですが、だと書けないらしく、不思議なものです。「別嬪とおかめ」はそんな二重性によるものなのか、動きの中でしか両立しない現象なのでしょう。舞台という額縁から抜け出した「おかめ」が、抜け出したお陰で「わし」と対面します。そこはそれで関係をもつと、おかめは消えてしまい、残された「わし」と「相方」のボレロの余韻。永井荷風の愛した春川ますみなどの名前が出たりして、合評会を賑わせました。
作者は、論述的な書きぶりを、日常の嗜好の内にどこか試しています。「猫の毛は、あれの全てが全て…」と書くとき、最初の「全て」は作者視点の表現に読ませ、次の反復の「全て」は猫に主体を移したところでの表現をしているのです。理解しようとすると難しいものです。さらに、「小生は君を愛する。がゆえに、君は愛されている」と、やや無理な断定を下し、すぐさま「それに溺れてはいけない」と否定したものの、「とは言いつつも、猫とは可愛いもので、」と、肯定の強度を強め、小生の猫好きをいかにも正当なものとして宣言するのです。生真面目の面白さを狙った作品なのだと思いました。作品の書き方はいろいろあるので、そのいろいろの持つ文体を試してみることは、よい文章修行です。書きたいものを書くだけでなく、何をどのように書くか、確かに大事なことです。
思ったことを素直に表現した作品なのでしょうが、非常に構成が整っています。まずは「タカベ」です。「群れっていいなあ。いつも皆と一緒で」は、一言で日本人気質を掴んだ表現になっています。タカベって、瞬時に空気を読んでしまうのですから…。次に不格好のマンボウを見た後、複雑な心境になっていると、幸せそうな三十代の女性三人組が「ネオンテトラ」の前で幸せ自慢をしているのを耳にとめます。ここでもまた、自律できない大人の描写がなされます。「周りのものに価値をつけて、それらを選びとっていく/そして自分と他人の幸せを比べたがる」と。「マリコと私は二十八歳をマンボウの側で感じようとしていた」は、とても複雑なものです。もっとも、こうした心境を感じることができるということは、文学的な才能のゆえのものだと思われます。もっとも、その上で幸せにもなりましょう
良質な青春小説です。友情を恋愛に、それも同性愛にニアミスさせ、どんでん返しを挟んですべてが完結……、嵐の後の日本晴れ的な読後感を持ちました。文章も、主人公である優吾の高校生らしさを表現していて、リズム感があります。問題は、文学賞に応募する作品かどうかによります。応募のことを考えると、きちんとテーマを表現しているかどうかが問われます。この作品の場合、同性愛がそれに当たりますが、どんでん返しで「そうじゃなかった」となると、単なる高校生活のギャグと取られかねなく、たいへん不利な書き方をしていると感じました。もしもギャグならば、それに見合った文体も必要になり、この作品のような生真面目なリアリズム文体は工夫を要するでしょう。もっとも、『さくさく』用の作品ということでしたら、よくできた楽しめる小説です。
まるごと純文学の作品です。二十五年の間、夫婦であったが、三年前に別れたその元夫が訪ねて来て、それも話がある、電話では話せない、と強引な物言いをして、いざ来てみると何の話もなく、ただ居間でほんのちょっと居眠りをして帰って行く、それだけの小説です。つまり何事も起きないのです。その何もない空間と時間とを、描写・表現することは筆力如何にかかってきます。作者はそれをなんとかやってのけているのではないでしょうか。すばらしいことであり、また作者が自らの力でこじ開けた新境地だと思います。元夫は死ぬのでしょう。他人、他者となった夫が、二人で共有した部屋にいだかれ、わずか十五分とは言え、眠りにつけたことは幸いです。妻にとっても、二十五年が決して失敗だった時間でなくなったのです。「傘」の文字にある四つの「人」文字が読む者に感動を与えます。
史実に会話体を交えての文壇史は、読みやすく臨場感を膨らませます。田山花袋と尾崎紅葉という二人の作家の切っても切れない関係、合わせようとしても合わせ切れない、不思議な関係に着目して、日本文学史として提起することはたいへん意義のあることだと思います。この当時の文学の流れには二つあり、一つは伝統的な江戸戯作者調の小説、もう一つは西洋の合理主義的文学を取り入れようとする小説です。田山花袋も尾崎紅葉も、二人とも戯作調、漢文調、西洋文学と広範囲に学ぶのですが、やはり好みというものがありますから、花袋は西洋風の自然主義文学、紅葉は物語重視の戯作調文学へと別れて行ったのは自然な流れだと思います。当時の日本は「国語」というものをつくるために必死だったのでしようから、新聞や教科書を通して西洋に追随したのだろうことは想像できます。
主人公の根本貴子は、真っ赤なベンツに乗って故郷に帰郷している、という設定になっています。この赤という色はなにかしら異邦人を思わせ、ベンツは都会の農村に対する威圧感となっています。その上で、「貴子は背が低く肥っている」と造型されています。このような設定をすると、本来の作者の作風からするとお手の物なのですが、今回はどこか趣向がちがいます。すんなりと現在の農村風景や空気感をみごとに描写しているのですから…。主観の奔放な行動描写に優れた作者が、今回は、客観に徹しているかのようです。風景・農村・故郷を主役に描いた作品にしているのです。その点で、タイトルの詩情は充分に活かされていると感じました。作風の幅を広げることは、とてもいいことだと思います。振り込み詐欺を導入して小説を面白くしたのは、まあ、作者のサービス精神なのでしょう。