毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
今回の読書雑記は、少し前の芥川賞受賞作家である「綿矢りさと金原ひとみ」の最近の作品を取り上げ、なおかつ、最新の芥川賞受賞作品、藤野可織「爪と目」を並べて、踏み込んでの感想が面白いと思いました。芥川賞ダブル受賞で話題になった綿矢りさと金原ひとみの作品を読んでいないので、どのような作家なのか知らずにいましたが、「雑記」に触れ、なぜダブル受賞だったのかも、なんとなくうなづけました。綿矢りさは「肯定の文学」で、金原ひとみは「否定の文学」なのだと思いました。藤野可織については、まずは受賞作のみにて、これから次第だとの作者感想のようでした。作家がどのようなスタンスを持ち、位置に立ち、どんな世界を見つめて書いているのか、留意して作品を「読む」ととても有意義なことであります。今回の読書雑記は「論」があって読ませます。
とても透明感のある作品だと思いました。書いている内容と文章がピッタリ一致していて、ストレートに、しかも読者からすればユーモラスに伝わってくるのです。的を得た書き方に自ずとなっているからでしょう。友達を求めて、先回はフラワーアレンジメントの講座、今回は簿記講座です。回想を取り入れた効果で、しっかりと小説になっています。それにしても松本友美の人物像は際立っています。すばらしい女性としか言いようがないのです。こんなに素敵な女性なのですから、友達がなければないで、そんなことお構いなしに生きてもいいのではないかと思われるのですが、友達を求めます。なんとなく正しく生きることの辛さみたいなものを感じます。いいかげんでも良いんだよと、言ってくれる人を探しているのかもしれません。「フレンド3」を、なぜか応援している自分を発見します。
創作一辺倒だった作者が、初めて書いた身辺的な作品です。風景描写に託すような趣で、その日常を現わしているでしょう。抒情的であっても、その抒情に客観を加えた表現には、やはり作者独自の西洋的な文学の香りがします。出来事の推移とは別に、その日常をさぐるようなところがあるのです。特に目を引いたのは、東西南北の方位で何彼と定位していくことによって、この現実を捉えようとする手法です。肯定するにも、否定するにも、ままならない自分の境遇をじっと見つめるための表現方法なのかもしれません。このような身辺的な作品は、作者にとって新しい試みということもあり、気になった点もあります。それは述語の「である」と「だった」の多用です。この述語だと、変に随筆とか評論っぽくなってしまいます。多層構造の風景描写、とくに夕焼けの描写は身につまされ秀逸でした。
作者の発想力には脱帽です。わくわくするような作品だと思いました。ある種の作品の価値は、うまく書けたかどうかではなく、どのような発想があるかどうかで決まります。つまり、この作品がそれにあたります。すばらしい発想による面白い小説です。いわば、宮本武蔵なる巨大なカリスマが、実は忍者集団による個々の「仕掛け」の集積によったフィクションなのだという、〈異説・宮本武蔵〉なのです。だと思いますが、作者はいかがなのでしょうか。もっとも書きっぷりはかなり荒く、こうした時代小説を読む読者が好む細部がすべて省略されているように感じました。そうしたことは後まわしにして、とにかく全貌を書いてしまい、その後改めて構成しようと思っているのかもしれません。一番勝負の天十には、なぜか佐々木小次郎を彷彿とさせられました。いやー、わくわくします。
習作的に書かれているのかな、と思いました。日常的な事柄をそのまま言葉に捉え、その言葉の反響を自分で聞いてみる、そのためにまずは書いているのだ、と思いました。さて、どうなのでしょう。作品は1~7まであります。5と7以外は、女あるいは性にまつわる色々です。毛色が変わっているのは、掲載作品の品位に気遣いしたのか、末尾の7で文学のことが書かれています。詩の批評で「深みが無い」と言われ、「おめえの文学はなんだ? すっかすかのへちまうりみてえなもんじゃねえか」、と反論してしまった小話です。実話なのかと思いながら、実話ならばどのような詩で、相手の小説はどんなものなのか、具象に書かれるとより面白いのにと思いました。小品のふくらむところを膨らませて書いていくと、自然と一つの作品が出来上がります。作者は作品を赤ちゃんが生まれるように待っているのでしょう。
詩は難しいです。究極の表現方法だからでしょう。言葉には、その言葉の持つ手触りみたいなものがあります。手触りが表現の道標となります。この感覚を得るのはもっぱら自己の存在を通してです。あらゆる先入観は排除するのです。この先入観との格闘は、何度も繰り返すものです。「生命」と「雪降る道」とは、その詩作において対になっているように感じました。「生命」は理念の側からの表現。「雪降る道」は孤独とともに歩む抒情です。理念と抒情を同時に提示、読者に双方を提供するサービス精神はありがたいものです。詩に対する求道者のような姿が垣間見られます。このことは作者の特質なのですから、この位置から詩作に励まれたらよいと思います。散文詩に限らず、いろいろな詩の形式にチャレンジし、言葉のおもしろさを楽しんでいきましょう。言葉が言葉になった水準にある詩です。
合評会で、ある一文に皆で盛り上がりました。それは「血の騒ぐ家系」です。この一語は、この作品の神髄を現わす語なのかしれません。デリケートな記憶だった秘密が、俊夫の口から語られる、つまりあからさまにされ、その実を結ぶことのなかった恋物語が、「アカショウビンの待合所」の夫婦によって実現されていたという、入れ子的な作品構造になっています。淡々と書かれていますが、本当は深い感情を含んだ作品なのではないかと思われます。作者に作品を書かせる動機は、なんとなく「血の騒ぐ」あたりからきているのかもしれません。もちろん、作者の作風もありますから、作者の書きたいように書けばよいのです。その上で、血の騒ぎみたいな、ある種の限界的な情況も少し入ると、いわば、生きた甲斐があるような作品を得ることができます。作者は、すでにその力量を手にしています。