毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
面白いけれど、これは「エセー」ではなく小説なのではないかと思われました。「私」は「コートで風をはねのけ」なければならないなんて、「風」って一体何なんだろうと、小説なのです。「電車の男たち」は、その会話で、この作品の全体像を語っています。私の読んでいる文庫本は、なんとなくカフカの『城』のように思われるのですが、「ページをめくるたびに/眠気に襲われ」るのです。駅に降りて、目指す劇場に向けて歩いていきます。歩いて行くのですが、ここでも、迷子状態に四苦八苦してしまいます。面白いというのは、このような顛末にあるのだと思います。コートで風をはねのける行為は、言ってみれば自分を見失わないためにするのですが、自分を見失わない代わりに、自分の存在する空間を失う結果になってしまうのです。しかも、それは瞬間々々に起こってきます。そんな作品に読みました。
なるほど、「歩道橋」なのかと思いました。交通環境に必要な「物」として、私達の当時は便利なものとして、盛んに造られたのが「歩道橋」でした。それが高齢化社会になって、用途のメリットが少なくなって、若い世代にとっては、「回り道」的存在になっているのだと、何か、初々しい感じの風景になっていることに気づかせられました。友達を囲い込むグループという名の線引き、学校から指示される進路・目標という名の強制的な前進などなど。作者はそれらを、まだ、自分で自分がわからないのだから自分を決められない、というニュートラルな状態を保ち、見つめて書かれた作品です。この「見つめる」作業から小説は始まるのですから、とても成功しています。見上げた歩道橋の一瞬に空想した男の子は、作者のあらゆる意味での分身です。その分身をこれから成長させていくのも、創作者の努めです。
作者を、「風景の美食家」と評した方がいらっしゃいました。それを耳にして、うまい評だと感心したものです。その後、作者に変化が見られました。歌づくりの奥深いところは知りませんが、どこか写生風になられたのです。端正になった言葉から、言葉にある物そのものの姿が現われてきたのです。一つの境地だなと感じました。また、詠まれること自体に感銘をうけます。今回の作品には、作者が不運にも足を骨折し入院された季節の経過が刻まれています。クリスマス、七草の季節、リハビリの春。すると、病院という環境が呼び起こす、医師であった夫への記憶は必然なことでしょう。「庭池の金魚は見えず大きな蝦蟇二匹が泳ぐボケの花かげ」を、私は秀歌とみました。生きとし生けるものの悲哀を、悲哀を感じさせず、淡々と詠みこんでいる歌です。蝦蟇二匹の滑稽さと悲哀、金魚、ボケの花かげ……。
一目見て難解な作品であること、その経文のように感じたのは、皆さんに共通した感想でした。散文的な情念を詩形に整えた散文詩なのです。全体は前段と後段になっており、前段はおそらく「失恋」を、後段はそこからの回復と新たな「縁」を求めての諸々といった、構成がなされています。かなり挑戦的な詩の表現と言えるでしょう。一時、散文詩が流行したのは、言葉そのものを表現する在来の詩形では、シュールリアリズム的表現がうまくできず、散文の持つ連続性を利用し、かつ、その連続性にくさびを打つ工夫をしたのが散文詩だと理解していますが、どうなのかははっきりしません。かなりのエネルギーがないと書けない詩です。句読点とか、漢字、カタカナ文字、リズム、といったものに問題を残しているでしょう。色々な点で洗練されると、天下一品の作品になります。
とても万全な作品に仕上がっています。あえて欠点を指摘するとすれば、意外とその万全さが欠点に感じられるのではないでしょうか。それは三人称小説ゆえの整い過ぎた構成、だということです。蕭白(蛇足十世)、平右衛門、お以登、の人物造形において、それぞれを適切に描写することに腐心するあまり、アクセントが散ってしまっているように感じました。作品の性質からして、まずは蕭白のエピソードを開陳することが求められます。そこに色を添えるのがお以登との何事かだと思います。芸術と人情であります。僧侶さえ気味悪く思う絵を、お以登は毎日のように見に行く、それが何故なのか、省かれてしまっています。もっとも、そこは読者が読み取るものかもしれません。以登とは「以って登る」です。龍のように異界に上ることを暗示しています。恋と芸術を作者は見事に調理してくれたのです。
楽しい作品です。「身の丈を忘れて……」「手前味噌への道」「失せ物を探して」の三題話になっています。一番目の「身の丈を忘れて……」はさもありなんです。女性が旅行を好む理由は、なんと言っても、上げ膳据え膳にあるそうです。日常生活の朝食・昼食・夜食には、自ずと明確なアクセントがあります。それが旅行だと、それも豪華な旅館ともなると、まるで夜食・夜食・夜食のご馳走尽くしです。もう食べられない……、そのご馳走を目の前にして、なんともったいないと。でも、息子たちのプレゼント旅行、さぞかしご夫婦水いらずの思い出になったのではないでしょうか。二番目の「手前味噌への道」、「……への道」がいいですね。スローライフの一環でしょうか。三番目の「失せ物を探して」はユーモア感があります。どことなく、探したのではなく、失せ物が向こうからやってきたような結末です。
不思議な作品です。それぞれの人物視点が、それぞれに重さを持っていて、主なものがないのです。だとすると、人物ではなく、登場人物の関係性みたいなものが、この作品の主体になっているのかもしれません。このように書かれた作品を初めて見ました。かなり面白い趣向です。どちらかと言うと女が主体になっており、なにかしら、大昔に在った母系社会を窺わせます。よくは知りませんが、母系社会では皆が家族で、他人というものがmeltingします。性に対しておおらかで、真央みたいな行状も許されるようです。独特の作品を書くということは、発想し・表現することも難しいですが、そこには新たな課題も出現します。文体とか描写とか、その作品に合ったもので書かなければならならいからです。それにしても、よくよく考えてみますと、真央ちゃんて魅力的な人物像に浮き立ってきます。