毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
究極の生き様の選択、それを写真家・古屋誠一を通して提起したのがこの著作です。息子に「パパがママを殺したの?」と訊かれ、「そうだ」と応える父親には賛否のわかれるところです。古屋に、それを生き方として可能にしたのが芸術に対する価値観なのかもしれません。芸術観と倫理観の葛藤を、古屋と小林紀晴の交流にて作者は紹介しているのです。芸術の追及なのか、それとも度の過ぎた自己愛なのかは見方によって異なるでしょう。もっとも、古屋誠一が自己愛だけでなかったことも窺えます。島尾敏雄や小島信夫は私小説作家で、妻のことをよく題材にしています。その上、愛妻家でもあるのです。妻の死の写真は、もしかすると自己の罪(愛)の証拠写真なのかもしれません。きっとそうなのでしょう。一歩現実の秩序からはみ出した人間が、「メモワール写真家・古屋誠一との二〇年」にはあるのでしょう。
章題に「大陸」と置き、大陸と関係した「私・先生・佐田米子さん」の時間旅行のような構成になった随筆です。先生は中学生の頃、風船爆弾を作らされ、後に中国の鞍山鉄鉱に就職します。一方、佐田さんは、中国で女子挺身隊の指導員を経て龍煙鉄鉱の社員となるのです。お二人とも作者が生まれる前のことであり、遅れて大陸にて生まれた作者にとっては「故郷」に対面したような感慨を抱かれたことでしょう。そのことがよく作品から伝わってきます。先生との出会いは早稲田の「地理学研究会」で、佐田さんとの出会いは「随筆の会」にてであります。随筆の会での合評風景は、わが文学市場とも照らし合わせてみて、たいへんおもしろいです。それから『船頭小唄』に因む経緯は初めて知りました。「おれもお前も枯れすすき」とは、年齢のことではなく、家運の先行きを詩に込めているのですね。
冒頭のアザミの描写は見事でした。「アザミが成っている」の表記に当初は違和感を持ちましたが、なるほど、花のアザミではなく、食べるためのアザミの「葉」なのだとわかると、しかもどんなものよりもおいしいと書かれると、一度食べてみたいと味覚が刺激されました。味覚と、紫の花と、刺、これらが東北の春の実感を告げています。作品は春・夏・秋・冬と季節ごとに書かれていますが、タイトルは「夏の子供・冬の子供」の対になっています。いかにも天国と地獄、動と静、的な自己の問いかけがあるように感じました。P230上段の「雪」 のシーンは秀逸です。物事に対処するに、自己と他者との相対化ができる資質のあることを示すものだからです。このことは思考の柔軟性にもつながります。原発のメルトダウン災害を受けて、失わるふるさとへの憧憬を強く感じました。
江戸の風情を読者に楽しませる作品になっています。食べ物や、それぞれの文化、これらによって時代の空気感みたいなものを表して成功しています。ただ、作者はそちらに力点を置いてしまったのか、「事件」の顛末にはいくぶん物足りなさがありました。事件の動機があまり明確ではないのです。おまさの実家は、越後屋が窮地に陥ったとき、金銭的に援助する程の、おそらく大身です。つまりお金持ちなのでしょう。「身代欲しさに」が動機にはなりづらい面があります。作者は作品の発想を、仕掛け、に根拠を求めたのでしょう。それゆえに、その仕掛けを中心にストーリーを組んだのです。もう少し段蔵の十手持ちらしい動きを出した方が、取り物劇は際立つのではないでしようか。三人称で書かれているのですから、悪人側の描写場面なども入れ構成したなら、立体感が出てくるのではないかと感じました。
かなり雄大な構想のもとに書かれた作品です。人間には百八の煩悩があり、それを清めるのが除夜の鐘です。大晦日の前の満月の夜までに百八枚の人間の顔の皮を剥いたならば、人間になれる。そこから、この作品は始まっています。百八枚目の顔の皮、それが欲情であるのがミソです。なるほどと思いました。人間社会が存続するための根本的煩悩なのですから。最後に、作者はパラドックスを講じます。雨子と月子の葛藤です。考えて見ますと、雨の降っているときに月はなく、月の出ているときに雨は降らないものです。そこを、雨子は妖怪で、雨子が人間になって月子となる、月と雨の相容れない設定を容れさせての展開なのです。人間である月子は恋をしてしまいます。業男に、です。これは業男の欲情の煩悩の顔の皮を食べたことによる矛盾なのであります。生や死に勝るのが愛であるとの考察が伺えます。
登場人物の名前のとおりの作品だと思いました。母である「妙子」は、「女が少ない」を合わせて表記した漢字です。また娘の「朋子」は、月と月で、母娘が並んだものです。二つ並んだ月の一つが欠け、その淋しさや静かさを書き現わしたのが、この小説になっているのです。こうした小説はストーリーという、作品を書きすすめる上での止まり木がないだけに、かなり胆力を要求されます。「母のわすれもの」である、母の描かれた絵を発見したとき、朋子の母への思いに一つのきまりがつきます。「かあさん、よかったね」と。ところで、作品の上で言及されることはないのですが、「母のわすれもの」がその絵だとすれば、「母のおくりもの」もあったはずで、もちろん、それはこの世に生れ出た朋子自身の命であったでしょう。そんな母子の絆まで読ませる作品になっています。冒頭の桜景色、美しいですね。
歴史には埋もれてしまって忘れられた悲劇が無数にあります。その悲劇を一種の「美」にまで高め現わしたのが、この作品であり、試みだと思いました。時代背景や仕組みは、盗賊の頭(大納言の君)が菊次郎に対して科したSM的な鞭打ちのためにあるように感じました。真に恋愛劇なのだと思います。なぜか三島由紀夫を彷彿とさせられました。真の愛は得られようとして得られるものではありませんから、現実の世界では悲劇になるしかありません。幸田露伴の『雪たゝき』の世界にも共通する趣がありますが、一つ悲劇が完結しないのは、菊次郎が生き残ってしまうところでしょうか。引き回しの列に菊次郎は切り込んで死ぬべき、といった合評意見が出されていました。時代ものと現代文が混在していますけれど、例として、P190上段中央、「気がするものですから」は明治文学以降の文章だと思います。