毎月、会長が報告して下さる例会報告です。
よくわからない複雑な作品です。登場人物は有香と可奈子なのですが、そこに可奈子でもある祖母という別人格を加えてもよいのかもしれません。なんとなく、祖母は現実に生きているように書かれ、一方、可奈子は生きているのか、もしかすると死んでしまっているとも取れるボカシした企みがあるのではないか、と感じるのです。このように想定すると、はじめて作品の全体が見えてきます。「黒々としたもの」とは、なんと幽霊なのです。幽霊がDVDを有香と一緒に観るのですが、そのDVDのタイトルは「講演会」で、幽霊にとってみれば現実は非現実で、そのDVDの映像だけが現実となりえるのです。もちろん、そこの錯綜に有香がかかわるのですから、世界は混迷するしかありません。難解な作品構造と平易な表現を混合しているでしょう。実験的ですが、長い作品にはなりづらいですね。
「再生」は、一連目では〈です・ます〉調で、二連目になると〈る・た〉調に変換されています。一連二連を対置させ成功しているかどうかは、微妙かもしれません。「せっかく流した……」は定型のリズムが心地よいです。二連目までは世界をみつめる視点があるのですが、三連目以降は主観に取り込んで詩形が崩れています。「落丁」は、とても評判がよかったです。〈なにもないところから〉の一行は、少し理の強い言葉かもしれません。「かた」は、素直に作者の心情をあらわした抒情詩かなと思いました。「かた」は〈肩〉であるとともに、時間と空間の〈次と前〉を指す「方」でもあるでしょう。詩の言葉や言語を考えた作品になっていると感心しました。表現とは自分の核心を現わすものですが、それを教条的に信じてしまうと、一向に「自分」は進歩しません。共に、変化していきましょう。
盛り沢山の内容の詰まった作品になりました。〈東海道五十三次〉の時は前進あるのみだったのですが、今回はさらに〈しゃくとり虫〉振りが深まってきています。本筋からの〈追分〉である伊勢街道です。本筋が日々の生活を意味するとすれば、伊勢街道の追分は心の道とでも言ったらよいでしょう。作者は、娘や愛犬チェリーの事柄に回り道をします。これらも家庭の営みだからで、その家庭の中心には、この後書かれる妻の存在が控えているのです。オーストラリアで、三十年前に行われなかった結婚式を行う。その結婚式は、結婚したことで生じた子供たちに囲まれた式になるのです。七月十二日。おめでとうございます。思えば、文学市場をつくることを勧めたのは檜山さんでした。その檜山さんを、私は出会う前から、新聞や雑誌、テレビで見て記憶していたのです。縁は異なものということでしょう。
「雑記」ということで、あることないことを思いつくままに書かれたのだと思っていたら、さにあらず、すべてフィクションだとのことでした。〈2,3,4,5〉がフィクションなのか、それとも〈4,5〉に限ってフィクションなのかは、尋ねませんでした。作者は太宰治の大ファンだそうです。太宰は、真実をさり気なく書いてしまい、その透明な空間で傷ついて見せることが得意な作家です。なるほど、太宰的な呼吸の文章なのかもしれません。体の力を抜いて、無防備に現実社会に入っていく文章は、それが一見普通であるために、優れたものとは感じられません。けれど、実際に書いてみると書けないものです。なにかに縋って思考し行動するのが人間の常です。作者には太宰的な作品を大いに書いていっていただきたいと思っております。(作者は秋田県から文学市場の合評会のために出席してくださいました)
友達づくりがテーマになっている作品です。裏を返すと自我の問題でもあるでしょう。友達とは、一般的な友達なのか親友のことなのか不明ですが、おそらく自我という殻を被らずに済む、気心の知れた友人のことです。端正な文章から、そのけじめみたいなことが伺えます。さて、見つかるでしょうか。作品は「第一回」となっており、「第三回」まであるそうですから、たいへん楽しみです。普通ですと、会社の同僚にしても、部屋のセキセイインコにしても、フラワーアレンジメントのおばさん達にしても、友達は友達だと思うのですが、自分を一人と強く思う〈友美〉にとっては、特別の「友達」でなければなりません。フラワーアレンジの講座を受けた友美は、さっそく街の花屋の店頭を飾る花々に気持ちが動くようになったのですから、「第二回」ではどんなものに心が開かれていくのでしょうか。
リアリティと幻想的なものとの兼ね合いは難しいものです。おそらく、この作品の冒頭の部分を作者は書きたかったのだと思います。あとは、その世界を頭の中で思い描いたのではないでしょうか。結局は、ラーマンとマハティールの相克劇になってしまったのです。ドラマは悪いことではありませんが、そこに活路を見出してしまうと、意図されたハッーピーエンドに陥りがちです。何らかの仕掛けが必要でしょう。もっとも、作者が書きたかったのは〈シャーマン〉だったのでは? こちらを表現するのはたいへん難しいです。なにしろ色々と勉強しなければなりませんから……。シャーマンとラーマンとマハティールの正三角形ともいうべき、美しい関係を表現できたことは確かです。作者はシャーマン的世界の、論理を超えた何ものかに興味を持たれているように思われます。まさに文学世界です。
明治文学が登場するのは、意外と遅く、明治二十年頃になってのことです。この作品は、その頃の草創期の熱気をよく伝えています。なんといっても田山花袋と尾崎紅葉です。二十歳そこそこの若者が、創作に励み、それを同人誌という形をつくったのですから、なんとも驚きです。言文一致の文体は、合理主義的な世界の潮流に近づくためにも必要なことで、革命的なことです。そこに工夫を凝らした尾崎紅葉の雅俗混合の文体には、作家としての意地みたいなものが感じられます。鬼気迫る執念です。夏目漱石などは、これから二十年程遅れて作家活動を始めています。それなのに、明治文学の果実を独り占めしているように扱われ、開拓者たちが高く評価されていないのは、さぞかし無念なことでしょう。作者は正しく明治文学を私たちに披露してくれています。